2004年(平成16年)1月20日号

No.240

銀座一丁目新聞

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追悼録(155)

君は兵を擧げよ我は財を擧げて支援す

  NHKテレビ第一が「そのとき歴史が動いた」で中国の革命の志士、孫文を助けた梅屋庄吉を取り上げた(1月14日)。これを見た友人は「君は兵を擧げよ・・・」の心意気も立派だが「支那の革命に自分が尽力したしたのは、自分と孫文の盟約にもとづいてしたことである。自分の死後このことを明かしてはならぬ」と遺書に残したのはすごいと感心していた。
 梅屋庄吉については車田穣治著「国父孫文と梅屋庄吉」(六興出版・昭和50年4月発行)に詳しい。この本は日比谷松本楼の社長、小坂哲瑯さんから頂いた。夫人が梅屋庄吉の孫娘であるというので良く梅屋さんの事を聞かされた。東京・大久保の庄吉の家の二階で夫妻が仲人で孫文と27歳年下の宋慶齢が結婚式を挙げている(大正3年11月25日)。当日中国革命を支援している政客、志士たちが出席している。犬養毅(政友会総裁・首相・5・15事件で殺害される)頭山満(右翼の巨頭・玄洋社の創設者)、内田良平(右翼愛国運動家・黒竜会を組織して大陸進出を主唱)、古島一雄(政治家・戦後吉田茂の政治指南役)、小川平吉(法相.鉄道大臣)など錚々たるメンバーが顔を揃えている。日本で公開された台湾映画「宗家の三姉妹」には梅屋も、この結婚式の事も触れられていない。映画は大変好評であったが、私は梅屋を抜きにしたこの映画を評価することはできなかった。
 孫文は大正14年3月12日、北京で死去する。60歳であった。梅屋は孫文の銅像や胸像を作り、日中友好を訴えた。孫文の銅像は黄埔軍官学校、中山大学などに寄贈された。大正の終わりから昭和のはじめにかけて中国では反日感情が強かったが、「日本人にもこんな人がいるのか」と対日感情を好転させたといわれる。一人の力ではその後の歴史を回転する事は無理であった。
 梅屋は昭和9年11月23日、67歳で死去した。この年の2月、日支間の改善を目指す広田弘毅外相(斉藤実内閣)に「中国に赴き国民政府首脳といつ、いかなる時であっても話し合いが行われる場を作って欲しい」と頼まれた。その打ち合わせのため上京しようとしたとき惜しくも倒れた。葬儀は盛大であった。新聞は伝えた。「支那革命の慈父 梅屋庄吉翁逝く」「孫文を援けた 日支親善の隠れた偉傑」それから70年、テレビで梅屋の功績が伝えられるのだから,もって冥すべしである。

(柳 路夫)

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