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小さな個人美術館の旅(63) 北鎌倉ワイツギャラリー 星 瑠璃子(エッセイスト) うららかに晴れた早春の午後、ワイツギャラリーを訪ねた。 北鎌倉の駅に降り立つと、あたりは柔らかな光に満ちて、まだ花の季節には遠いというのにどこからともなくいい匂いがする。ギャラリーはちょうど「牧野四子吉・植物生態画展」のオープニングの日とて、大勢の人で賑わっていた。もともとは写真のための「美術館」だが、時折こうした企画展も行うのだそうだ。 「広辞苑」のイラストで有名な故牧野四子吉(よねきち)の、生涯に数万点は描いたという動植物画のなかから、今回は植物画のみ数十点が出品されている。案内状に印刷の絵に魅かれてやってきたのだが、細密描写ながら気品高く仄かな詩情が漂うその作品は、凡百のボタニカルアートとはやはり一線を画していた。もともとは日本画家であったのを、その世界にあきたらずに独自の道を歩んだ人という。古都の小さなギャラリーにふさわしい心洗われる展観である。 写真家、浦野康夫の作品と資料の保存公開のために、ここワイッギャラリーが開館したのは一昨年、1997年1月1日のことだ。ちょうどその日、浦野は六十五歳の早すぎる生を終えた。 ギャラリーの計画が持ち上がったのは、それより二年ほど前。朝日新聞社「アサヒカメラ」の編集部にいた田島正夫さんが相談を受けたのが始まりだった。ヴェス単(ヴェスト・ポケット・コダック)のカメラ二百台と、写真に関する戦前の書籍、雑誌など四千冊。これだけでも他に類を見ないコレクションである上、そのヴェス単で撮った浦野の写真がなんとも不思議な魅力をもっていた。 小津安二郎の映画の着物などで知られる染色家、浦野理一の長男として生まれた浦野康夫は、日大の映画科を卒業した後、不動産管理の仕事のかたわら父の創作活動への協力もあって、独特な色彩効果をもつヴェス単カメラによる撮影にとりくんでいたのだった。 田島さんは東京造形大学の柳本尚規教授に話をもってゆき、資料館プラスギャラリーの計画が始まった。建築に取りかかったのが96年2月。しかし、ちょうどその頃、浦野は病いに倒れた。膵臓ガンの進行は早く、「なんとか生存中に」という願いは、もう少しのところでかなわなかった。館主なき悲しい開館記念展は、田村彰英の写真展「光のおりる所、鎌倉にて」。浦野の遺作展「歌う光」は同じ一月、新宿コニカプラザで開催された。 ワイツ=YTSUという不思議な名前は、美術館開館にかかわった四人、Y=柳本尚規、T=田島正夫、S=白木浩二(鎌倉市の元部長)、U=浦野康夫の頭文字からとって作られた名前なのだった。開館から二年経った現在は、宏子夫人が館主となり、柳本教授を館長に、ギャラリーの運営、浦野写真文庫の文献整理が進められ、亡くなった一月は、浦野康夫の写真展で毎年その年の幕を開ける。 「入場料は無料なので、館主のポケットマネーでやっているんですよ」
「浦野さんは幸福な人だな。慈しみながら集めた魔法の箱みたいに美しく小さなカメラ。変幻自在な光たゆたう絵のような写真。そうした自分の世界をそっくりそのままに旅立った。それを大切なものとして次代に伝える人と場所を残して。会ったことはないけれど、きっと魅力的な人だったに違いない」 そんなことを考えながら、真っ赤な太陽が水平線近くの雲にかくれるまで砂浜にいた。沈みゆく陽とともに、波打ち際は虹色に染まってゆく。まるでヴェス単カメラで撮った写真のように滲みながら。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |