2003年(平成15年)12月10日号

No.236

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
静かなる日々
お耳を拝借
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

 

追悼録(151)

明石元二郎将軍を偲ぶ

 産経新聞が二人の外交官の殺害事件をとらえて、社説で「現代版の明石元二郎を」と訴えていた(12月5日)。明石元二郎(士官生徒6期)とは久し振りに聞く名前である。日露戦争時、明石はロシア公使館付の武官で陸軍大佐であった。かずかずの謀略で日露戦争を勝利に導く大きな要因を作ったとして歴史に名を留めた武人である。
 社説によれば、バクダットの日本大使館には情報情報収集と分析、アラビア語、対人交渉・・・とあらゆる能力において特別な訓練を積んだ「プロの情報員」が皆無であったという。そのお手本として明石元二郎の名をあげる。日露戦争の最中明石大佐は地下の革命運動家、レーニンの一派にふんだんに資金を提供するなど謀略工作を行い、首都で要人暗殺や工場のサボタージュを頻発させた。これによりロシア軍の東方展開に歯止めをかけ、対露戦争の貢献しただけでなく1917年に帝政打倒のロシア革命を誘発したというのである。明石大佐は機略縦横、豪胆沈着、緻密周到、積極果敢な人であった。
 明石の略歴を見ると、明治27年2月、大尉のときドイツに留学、同34年1月駐仏公使館付。同35年8月駐露公使館付、同37年2月(日露戦争勃発2月10日)参謀本部付・欧州駐在、39年2月駐独武官となっている。明石は幼年学校時代フランス語を学んだが、ロシア語、ドイツ語、英語など各国語に通じていた。明石は在仏中からロシアとの戦争に備えて、ロシアとヨーロッパ各国との関係、ロシア国内における政情、反国家主義、革命家の動向など特に詳細に調査し分析した(楳本捨三著「陸海名将100選より)。
 明石のえらいのは、機密費、現在の貨幣価値で100億円強とされるものを自分の生活費を切り詰め、資金の約三割を返したこと。また、いらぬ誤解を与えてはいけないと在任中、家の新築を控えたという点である。官房機密費は使い放題という現代の政治家とは大違いである。
明石は台湾総督(大正7年6月)大将(同年7月)台湾軍司令官を兼ね(同8年8月)同年10月死去した、享年56歳であった。

(柳 路夫)

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts。co。jp