2003年(平成15年)11月20日号

No.234

銀座一丁目新聞

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追悼録(149)

 日米戦争の開戦日を掴んだ新聞記者

  手元に「戦時報道に生きて」と言う後藤基治さんが著した本がある。後藤さんは私が毎日新聞東京本社で仕えた2代目の社会部長であった。当時48歳である。私より24歳の年上の部長は悠々として大人の風格があった。この本にも書いてあるのだが、若いときは特種記者であった。若い記者たちを食事に誘い出して良く話を聞いてくれた。今思えば仕事のしやすい雰囲気づくりに努力されたのだと思う。いい部長であった。
 後藤さんといえば、昭和16年12月の開戦日の特種を取った事で有名である。同書によると、昭和16年11月12日午後2時ごろ、後藤記者は海軍大臣米内光政邸を訪問した(これが後藤記者の日課になっていた)。雑談しているうち米内さんがかたわらに置いた黒い鞄を取り上げ、何か書類を出しかけたがふとテーブルの上に置きざまに「ちょっと失敬する」と部屋から出て行った。その出しかけの書類を見た瞬間後藤記者はそれが「読んでおけ」と言う意味だと理解できた。『米英、蘭印、泰』などの南方各地の国名とともに、武力発動は『12月初頭』というのが読めた。米内さんは戻ってくるなり、鞄を脇に押しやり『このなかには君たち記者が見たがっているものが入っているのだがそれを見せれば大将もコレだよ』と首をたたいてみせたという。だが新米の政治部記者のこの特種を社の3人の有力幹部は『あーそうかね』で終わりであった。ことがことだけにニュースソースを教えるわけにはいかなかったそうだ。
 後藤記者に陸軍のマレー作戦は12月8日と教えてくれた軍人がいた。後藤記者が支那事変で従軍したときからの知り合いで、久徳通夫中佐という陸軍航空気象草分けのベテランであった。陸軍砲工学校に設置された航空気象の専科(のちに陸軍気象部に変る)を恩賜の銀時計で卒業した経歴を持ち、昭和16年2月から9月末までバンコックに私服で潜入、現地の気象資料を半年にわたり収集した。気象原簿までコピーしたという。マレー半島の気象状況の分析の結果、統計上12月8日が「上陸可」とでたというのである。陸軍は開戦日を12月8日と決めたわけである。
 さらに後藤記者は12月7日朝、海軍省の自動車部の運転手からこの朝、米内海軍大臣と永野修身軍令部総長が海軍と縁が深い明治神宮と東郷神社に参拝した事がわかった。『そうか、海軍もとうとうやるのだ』と後藤記者は思ったそうである。他の記者たちの情報とあわせた12月8日の朝刊は5段で『隠忍自重限界に達す、断乎駆逐あるのみ』と書きたて対米戦争開始をにおわせた。もちろんその前に開戦に供えて毎日の取材陣は香港10人、タイ15人、マレー半島10人、比島15人、蘭印25人、南支那26人。仏印25人とそれぞれ派遣された。
後藤記者は社会部長のあと毎日放送に移り、副社長までなられた。昭和48年7月死去された。享年71歳であった。

(柳 路夫)

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