2003年(平成15年)10月10日号

No.230

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(15)
星 瑠璃子

  7月26日
 猛暑が続き、最高気温は37度となった。
 朝早くコンクリート職人が来て、かねてより懸案の門から玄関までのアプローチの改修作業に入る。飛び石伝いだったところをタイル張りにして車椅子での出入りに備える、その基礎工事である。
 剥がした石を、こちらも母が歩きやすいようにと庭のほうへ敷き詰めて作業が終わると、あえぐように暑く長い夏の一日が暮れた。思ったよりずっと大変な作業だった。明後日にはタイル屋が来て工事終了となる予定だが、一日で終わるかどうか。
 これまでは、毎朝の散歩の出入りが大変だった。工事が終わるまで戸外に出られないというのも可哀想でスケッチ散歩を再開したのだが、「コワイ、コワイ」とそのたびに大騒ぎ。完成すればずいぶん楽になるだろう。
 大騒ぎはするものの、母の足は驚異的にしっかりしてきた。とにもかくにも散歩に連れ出せるまでになったのだから。けれども入院前にくらべて、変わってしまったなあと感じるところも多い。
 たとえば今日はテレビの地方ニュースを見ていて、「N H K なのに埼玉だの群馬だののことばかりやっている」とぷんぷんしており、いくら説明しても分かろうとしない。もっとも、「ホントねえ」とあいずちを打っていればいいものを、躍起になって説明するこちらもどうかしている。適当にあいづちを打ったり、聞き流したりということが私にはどうしてもできないのだ。こういう対応が相手をどんなに傷つけるかしれないのに。
 老人の場合、鬱状態が長く続くと物忘れや判断力が低下して痴呆様(仮性痴呆)になりやすいというが、これもその一種だろうか。そういうひとの脳の断層写真を撮ると、血管のところどころに黒く詰まっているところがはっきりと分かるという。アメリカではこれを「ドット(水玉)」といい、日本では「まだら」と呼ぶ(「まだら呆け」という言葉はここから来ている)ということだが、あるいはそれだろうか。このままにしていていいのだろうか。ひと晩に5回も6回も起きて一人で着替えをするということなしに、睡眠薬とか安定剤でぐっすり眠れたらどうなるのだろうか。脳の C T や M R I を撮ったり、痴呆の程度を判定するテスト(長谷川式簡易評価スケールというものが一般的らしい)を受けたりする必要があるだろうか。
 
 7月30日
 今朝4時、またしても母は転んでしまった。
 どうして? どんなふうに? は、いつもの通り聞いてもさっぱり分からないのだが、ベッドの足元に仰向けになって助けを求めているのに、二階に寝ている足立さんが気付いた。内線電話のコールで、私は離れからまだ薄暗い庭を突っ切って駆けだしてゆく。
 退院以来、背の高いレンタルのリクライニングベッドとやや低めの自分のセミダブルのベッドを寝室の窓際と壁際に2台置いて、あちらに寝たりこちらに寝たりしていたのを、昨日から自分のベッドだけにしてみたのだが、それが早すぎたのだろうか。
 「タスケテ、タスケテ」と騒ぐ母を、ようやくのことでひっぱり起こした。なにしろ重いのだ。わが家に40年以上もいてとうとう80歳を越してしまった小柄な足立さんは、こういう場合ほとんど役に立たない。わが家はまさに老々介護の典型、汗びっしょりになって母をベッドに寝かせた。
 朝食後、「今日はお散歩をお休みにしたら」というのを、「大丈夫」とにっこり笑って母は何事もなかったかのようにスケッチに出かける。けれども転んだことと関係があるのかないのか、気分が悪いというのであわてて引き上げる。猛烈な蒸し暑さがぶりかえして、いつもはひんやりとした石神井公園の森の中でさえ、じっとりと気味悪く汗ばむ。 
 
 8月4日
 暑さにもめげず、毎朝のスケッチ散歩が続いている。
 それにしても、よくもまあここまで回復したものだ。願っていた日がこんなに早く来るとは考えもしなかった。「ふつう」なら、いまごろまだ病院なのだ。それは考えだけでもぞっとすることで、早く助け出してよかった。骨折を治していただいてこんなことを言ってはいけないのだけれど。
 3日がかりのタイル工事も無事終わり、車椅子の出入りがずいぶん楽になった。
 今日は日曜日で都心の道がすいているので、思いきって母の好きな北の丸公園まで足をのばすが、武道館で催しがあるらしく駐車場へ入れず、日比谷公園に行く先を変更。
 久しぶりのことで大喜びをしたまではよかったが、ちょっと目を離したすきに、またしても(!)母は転倒した。車椅子を出し、トランクを閉めているほんの1、2分の間のアクシデントだった。ふと見ると、松本楼の苔の庭に車椅子ごと仰向けに倒れていた。どうするとこんなに恐ろしいことが起きるのか。これだけは避けたい転倒が、これで3回目なのである。けれども、今度も母は無事だった。なんと運のいいことだろう。
 気を取り直し、噴水の広場からバラの咲き乱れる庭を通り抜け、木立から木立へと人影もまばらな朝の公園を歩く。
 「ここの藤棚はウチで寄贈したものだそうよ」と、母は何事もなかったかのように昔の話を始める。それは政治家だった父方の祖父が三田に住んでいた頃のことで、戦争もあり、たとえ藤棚が元の場所にあったとしても、何回も作り直されたものだったろうに。選挙に勝つたびに国会から三田の家までを馬車で凱旋したという生前の父の話とともに、私にとっては何回も聞く「おとぎ話」だ。ところで、どうしてもと望まれて断り切れなくなったという一人娘の結婚に、洋画家だった母方の祖父は反対で、帝国ホテルでの父母の結婚式の写真を見ると、この祖父だけが写っていない。「それで、お母様自身の気持ちはどうだったの?」と、以前に聞いたことがあったが、「お父様も絵描きだったから、おじいちゃまは最後には喜んで下さると思ったのよ」と甚だ心細い答えしか返ってこなかった。

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