陸士59期生の予科入校60年を記念して全国大会が開かれた(9月26日・帝国ホテル)。集ったもの670余名。年齢は77歳か78歳である。昭和18年4月に埼玉県朝霞にある陸軍予科士官学校に入校、その後、本科へ進み航空、地上兵科に分かれ、激しい訓錬を重ねているうちに敗戦を迎えた。軍人としての志は挫折したが、戦後はそれぞれの分野で日本の再建のために努力し、活躍した。
今なお鮮烈な印象として残っているのは、牧野四郎中将校長(陸士26期)の言葉である。「武士的情誼を涵養し、花も実もあり、血もあり涙もある武人たらんことを期すべし。情誼は軍隊団結の基本なり」
入校時の訓示の一節である。牧野校長は昭和19年3月第16師団長としてフィリピン・レイテに出征、敵と戦うこと1年3ヶ月余。レイテ西部カンギポットで戦死された。ときに52歳であった。全国大会で司会の安田新一君(予科21中隊3区隊・歩兵)は素晴らしい悪戯をした。突然祝電を披露した。「59期生の全国大会が盛会に開催されることを地下から祈念いたします。諸兄が情誼厚き人間に成長し各方面で活躍されたことを心からお喜び申し上げます」陸軍予科士官学校校長、牧野四郎中将と読み上げたのである。会場は爆発的に盛り上がった。私と同じテーブルにいた牧野校長の長男牧野一虎夫人洋子さんは目頭を押さえていた。一虎君とは予科時代同じ23中隊1区隊であった。彼は戦後医者の道に進み鹿児島で開業していた。平成7年5月開かれた古希記念特別大会で戦後始めて50年ぶりに会った。その時、弟の弘道君が産経新聞論説委員として活躍しているなどとなごやかに話しあった。その弘道君もこの大会に出席しており、今は戦争の語り部として活躍しておられる。一虎君は平成9年8月なくなった。洋子さんの話によると一虎君と私が逆立ちしているスナップ写真があるそうで、私の姓と名前を覚えているという。私には全く記憶にない。貴重な写真である。同じ区隊の田中長君は予科時代、日曜外出で牧野校長の家へ同期生とともに遊びに行き、ご馳走になった事があるという。また同期生の重信実忠君(予科30中隊3区隊・通信)は比島から「不動如山、牧野中将」の軍事郵便を頂いている。今年もまた「GO-Q プラザーズメンバー」16人が植竹与志雄君(予科27中隊1区隊・船舶)の指揮で「59期には明日がある」を合唱した。「明日があるさ 明日がある/59期には夢がある/昔の歌 昔の歌 みんなで歌おうよ」。
(柳 路夫) |