2003年(平成15年)10月1日号

No.229

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(28)

―育てる話― 

  アメリカの伝説の名馬シービスケット。これについて書かれた本のことは、前回紹介した。あのとき触れなかったことについて、少し書き添えたい。如何にして名馬に仕上げたか、その過程のエピソードについてである。シービスケットは体が小さく、気の荒い馬だった。1人の男(調教師スミス)が、そんな馬に目を留め、競走馬として育成してゆく。人々から見向きもされなかった馬に、彼はなぜ注目し、如何に接していったか。それは興味深いし、われわれに多くの示唆も与えてくれる。
 体の小さいシービスケットは、体重が標準を90キロ以上も少なく、痩せ細っていた。気が荒く、厩務員が馬房を通りかかるたびに突っかかってきた。馬房の掃除や馬の手入れもさせないほどだった。痩せ細っているのに、食事を拒んだ。馬房の中を絶えず動き回って落ち着かず、ひと目でも鞍を見ると動揺した。左脚を痛め、具合が悪そうだった。当初のシービスケットのプロフィールといえば、ざっとこんなふうだ。さて、調教師のスミスは、この馬とどう接したか。
 このことは、例えば人間社会における、ある種の教育問題と重ね合わせてみると、興味深いものがある。スミスは、まず、馬を「観察」することから始めている。じっくり観察し、離れていても、馬のことを考えていた。その結果、最初にやるべきことは、「緊張を和らげることだ」と思い至る。痩せ細って元気のない馬に、愛情とともに好物を与える。さらに、大学の研究発表をもとに栄養学を研究し、栄養に富んだ飼料を工夫する。食事を拒んでいた馬が、少しずつ食べるようになり、体力をつけていく。
 馬の緊張を和らげるために、他の動物を馬房に入れて同居させることも試みる。これは一種の治療法で、犬や猫、猿などとの同居例もある。どれがいいかは難しいところで、スミスは山羊も試みている。最も相性がよかったのは、パンプキンという誘導馬で、急速に友情を深めてゆく。パンプキンはかつて牛の牧場にいた馬である。牛の角に突かれて怪我をしたこともあるほどで、気の荒い相手の対処法も心得ている。シービスケットとの同居はうまくいく。これ以後、迷い込んできた小犬との同居もうまくいき、シービスケットは次第にリラックスし始める。
 こうして次の課題に取り組む。標準体重以下の傷ついた馬体の回復。痛めた脚の手当てと再発防止。栄養補給への細心の注意等々。さらに馬房には、清潔な藁で寝心地のいい寝床も用意する。こうして調教のできる段階にもっていくのだが、全力で突っ走ってしまい、制御が利かない。騎手の指示に従わせることに苦心する。強い馬に仕上げてゆく過程には、実にさまざまな人知れぬドラマがある。馬の話ではあるが、人間社会の教育問題を思わせるものを含んでいる。

(戸明 英一)

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