2003年(平成15年)8月20日号

No.225

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競馬徒然草(24)

−「寿(す)号」のこと− 

  乃木大将がステッセル将軍から贈られた馬は、牡のアラブ(8歳)だった。きれいな白い葦毛なので、ひときわ目立った。しかも、性質が温順であるばかりか、多少のことには動じない面も備えていた。戦場では、爆弾の音や喚声にも驚かなかったという。
 乃木大将は凱旋後、改めてこの馬の払い下げを受け、正式に自分の愛馬とした。というのは、水師営の会見時に申し出を受けたときのいきさつがあるからだ。その辺の事情を、『洗心』(138号・中央乃木会発行)が伝えている。それによると、ステッセルは、アラビア産と豪州産の2頭の愛馬を贈りたいと申し出ている。乃木大将は一旦は辞退したが、好意を無にしないために、正式な手続きをとった上でアラビア産の馬1頭を受け取る旨を伝えた。馬とはいえ、敵将から受け取るには、軍規に従う手続きが必要とされた。そこで、凱旋後に、正式に払い下げを受ける、という経緯をたどった。
 この「寿(す)号」は、乗用馬として大事に扱われたが、また、馬匹改良にも役立てられた。体格のいい、品格のある馬だったからだ。体高は4尺9寸(約156.8センチ)あった。日本馬(在来種)の体高はせいぜい135センチ程度であったから、体高が22センチも大きかった。アラブだから、体も逞しい。種牡馬として、馬匹改良に役立てられる条件を備えている。乃木大将は、かつて乗用馬を馬匹改良に供したことがあり、この面の関心も深かった。軍馬補充部本部長の大蔵平三中将に相談したのがきっかけで、鳥取の佐伯牧場へ「寿号」を種牡馬として贈ることになる。当時、大山山麓に軍馬補充部大山支部があり、佐伯牧場は馬匹改良に熱心な牧場として知られていた。こうして「寿(す)号」は、明治40年、佐伯牧場で種牡馬となる。当時10歳である。
 資料によれば、8年間に約80頭の仔馬をもうけたが、いずれも優れた馬で、「馬匹共進会では常に優等賞を受け、組合の市では最高価格を占めていた」(「洗心」138号)という。佐伯牧場の当主佐伯友文は、そんな優れた産駒の1頭を「乃木号」と名付け、乃木大将に贈っている。馬を介し、そこに人の物語もある。

(戸明 英一)

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