2003年(平成15年)7月20日号

No.222

銀座一丁目新聞

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茶説

事件の少年の家庭が見えてこない

牧念人 悠々

 長崎市の幼児誘拐殺人事件の本質は12歳の少年が幼児を立体駐車場の屋上から突き落としただけでなく、ハサミで急所を傷つけて殺したことにある。極めて異常で残酷な少年の行為である。どんな家庭に育ったか知りたいと思うのが人情というものであろう。新聞を見る限り少年の家庭がみえてこないのである。この事件に関連して鴻池祥肇構造改革特区・防災担当相(青少年育成推進本部担当)の発言が物議をかもしたが、この発言は私の気持ちをよく代弁しており、何ら問題にするにあたらない。新聞はわかりやすい分析記事を書くべきである。そのもどかしさ、不満がくすぶるっていた。その意味では鴻池大臣の発言は事件を掘り下げて取材せず、「体をハサミで傷つけられた」としか表現しないマスコミに向けられたといってもよい。
 少年は14歳以下だから正しくは犯罪者ではなく「触法少年」とよばれる。その報道の扱いは慎重を要する。それを踏まえて上で少年法の精神と類似事件の再発防止の観点を比較考量せねばならない。「三つ子の魂百まで」といわれるように人間の性格は3歳までにほぼ出来上がるといわれる。とすれば、加害者の家庭が問題となってくる。報道によれば、少年は一人っ子で、母親の溺愛のもと気ままに育てられたようである。情緒は不安定であったといわれる。何事にも我慢することを教えられなかったと思われる。父親はレストランの調理師、母親は3月からパートに出ている。両親は一時離婚したが間もなく復縁している。子供は親の鏡である。子供は両親を見て人を愛することを覚える。少年の心のいびつさはどこからくるのであろうか。
 加害者側にも人権があるというので、マスコミはその取材に及び腰になっている。新聞報道の中には報道によって類似事件の再発を防止する機能も有する。その機能を人権を守る名目でおろそかにしているとしか思えない。
 「親は市中引き回しの上、打ち首」と言う発言はまず加害者の親は「謝罪」をせよということである。今の新聞記者はそれをそのまま受け取り、失言と報道する。その真意を生かして、それが触法少年を持つ親の務めであり、責任でもあると伝えれば、読者に共感を与えたであろう。
 子供成長するうちに善悪の判断が身につく。人を傷つけることも幼児の衣服を脱がせることも悪いことだとわかる。一人っ子の家庭であっても子供を躾るのは親の勤めである。子供が人を殺せば、それが日常の生活態度に表情、所作に表れていたはずである。事件を起こしながら8日間も平然と登校していた少年に心の傷の深さを見る。溺愛していた母親に見抜けなかったのは残念というほかない。
 ちなみに江戸時代少年犯罪の扱いを調べると、15歳以下の放火は15歳まで親類預け、15歳になったら遠島に処せられた。15歳未満の少年が子供の衣類を剥ぎ取って売った事件で町奉行は死罪の伺いを出したが、老中から遠島の指図があったという記録がある(南條範夫編「考証江戸事典」より)。

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