戦後の民主主義は日本人に個の尊重を説くあまり多くの弊害をもたらした。放任主義となり、自己中心主義に陥り、欲望のままに生きるようになった。自分を犠牲にしてまで公に尽くす気持ちを希薄にしてしまった。と思っていたら日本だけではないらしい。台湾ではSARS患者でてんやわんやの病院をよそに自分だけ脱出した医者がいる。
北京では看護師や職員が病院を一斉に退職してしまったところもある。もちろん、自分の職責をはたし、SARSに感染、殉職した女性看護師長(台湾)、同じく男性看護師(香港)もいる。猛威を振るうSTARSに対して医者、看護師、病院の職員、患者、家族は戦うほかない。逃げていては撲滅できない。人間はこのような非常の事態に立ち会うことが少なくない。有事に備えて覚悟を決めておいた方が良さそうである。
日本の場合はどうか。正直いって暗い気持ちにならざるをえない。「医は仁術なり」といっった。今は「医は金なり」の時代である。医療現場は荒廃している。多くは期待できない。だから個の尊重の時代であっても、公のために人間は尽くさねばならないのだ。教育基本法の改正で「公共心の育成」が打ち出されたのは当然である。一片の法律で公共心が育つわけではないが、大きな転換期の節目として改正が必要だと思う。自分さえよければよいという「個の尊重」がいかに間違っているかが、今度のSARS騒ぎで理解できたであろう。危機の時、その人の人間性がもろに出てくる。勇気の問題よりその人が自分の職責を全うする責任感のあるなしでことは決まる。その責任感を支える一つが「公共心」である。自分を犠牲にして皆のために働くという意志である。ある時には死を覚悟しなければならない。その自明の理がいつのまにかどこか忘れさってしまった。はしなくもSARS騒動が公共のために献身する重要性を示してくれた。
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