女医第一号 荻野ぎん
「女医第一号は誰ですか」とつい最近、知人の女性から質問された。「明治事物起源」(明治文化全集別巻)を調べると「女医の始」について次のように書いてあった。「女医修業の婦女子漸く多きにより、明治17年9月
、初めて之を許可し爾後内務省の開業試験に及第し免許をえたる最初のもの左のごとし。
婦人科、18年3月、東京西黒門町、荻野ぎん、19年9月、埼玉、生沢くの、20年3月、東京日本橋通、高橋みつ、21年1月、本多せん」
女医第一号は荻野ぎんとわかった。女医、荻野ぎんを世の中に広く紹介したのは渡邊淳一さんの「花埋み」(1970年8月河出書房新社)である。33年も前の話である。考えてみれば、女性と医者を描くことができる作家は渡辺さんをおいていない。「花埋み」は女性必読の書である。先覚者の歩んだ苦難の道が屈折したぎんの心理とともに書かかれている。
明治12年2月、東京女子師範(お茶の水女子大の前身)を一期生15人とともに卒業したぎんは女医になりたくて、どこの医学校も女人禁制であったのを陸軍軍医監、石黒忠悳の紹介で好寿院で医学を学ぶ。ひどいセクハラを受ける。当時、男性に混じって女性が医学を勉強するのはなみたいていの苦労ではない。読んでいて大いに同情した。女医志望の原点は病院で男性の医師たちの手で足を押し広げられ局所を治療された「羞恥地獄」と「屈辱」である。ややもすれば挫けそうになる心がこの原点を思い出すごとに払拭される。さらに当時の医術開業試験は女性に門戸を開放されていなかった。それを打破したのがぎんの博学であった。令義解(大宝律令の注釈書)に「女医博士」の言葉があるのをぎんから聞いた石黒忠悳が衛生局長の長与専斎に大宝律令に前例もあり、欧米先進国のどこにも女医がいると口説いて、女性の開業医への門戸を開いた。よくもこのような史実を調べてものだと感心する。荻野吟子(渡辺さんはぎんを漢字とする)は渡辺淳一によって現代に蘇った。日本女性はすごいと感心する。なくなったのは大正2年6月23日、享年62歳であった。
なお渡辺淳一さんがこの春、紫綬褒章を受章したので6月9日、新宿の「武蔵野」でささやかなお祝いの会を開く。
(柳 路夫) |