2003年(平成15年)5月10日号

No.215

銀座一丁目新聞

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追悼録(130)

 つつじのきれいな季節になった。府中の自宅の近くを通る環八道路の歩道にあるつつじは今盛りと咲いている。万葉にはつつじをよんだ歌が十首ある。

 山越えて/遠津の浜の/岩つつじ/我が来るまでに/ふふみてあり待て

 意味は「やまのあなたの遠津の浜に咲く岩つつじよ、私が来るまで蕾のままでいておくれよ」である(国分寺市教育委員会編「国分寺の万葉植物」より)。
戦時中、歩兵の同期生のひとりがこんな歌を作った。

 わが国の/つつじの花とは/見つれども/本科武助は/食えるかと問うらん

 陸士の59期生(地上兵科)は昭和20年6月、長期野営演習という名目で長野県北佐久の国民学校などに疎開した。食糧事情は相武台(陸士本科所在地)と少しも変らず、みんな空腹にたえた。道々に咲くつつじの花がいつのまにかなくなってしまった。我々が無粋にもつんで食べたからである。つつじの花は少し塩気があってうまかった。本科武助とは我々をさす。
 同期生の歌にはもと歌がある。前九年の役(1062年)で源頼義に破れ、兄安倍貞任とともに京都に連行された安倍宗任に、公家貴族が東国のえびすと馬鹿にして梅の小枝をさして、「おまえの国ではなんというのか」と聞いた。
 宗任の答がふるっている。「わが国の/梅の花とは/見つれども/大宮人は/何と言ふらむ」その歌をもじったのである。
 長野に行くにあたり、13中隊と筆者がいた14中隊の歩兵が一緒になり第12中隊と編成替えになった。中隊長は14中隊長であった姫田虎之助少佐(陸士42期)がなった。姫田少佐は陸士予科の区隊長(49期。51期、53期)東京幼年学校生徒監(東幼42期)を務めた教育畑の人である。また、山砲を富士山の頂上まで運ばせた猛者だとも聞いた。たしかに14中隊歩兵の演習はきつかった。一週間連続の夜間演習もあった。お蔭で気力も体力もついた。
 協和村国民学校に落ちついたわれわれに「内務の実践、躾の実践に務めよ。とくに相武台を離れてのかかる山間の生活においては、ややもすれば気分緩み、内務も躾もおろそかになるものなり」と戒められた。たるみがちな士官候補生の気持ちをしっかりと見え透えていたのであろう。戦後一度、相武台で開いた中隊会で元気なお姿を拝見したが、今年4月20日、死去された。享年94歳であった。「今日あるのは中隊長のおかげです」と弔電を捧げた。

(柳 路夫)

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