2003年(平成15年)5月10日号

No.215

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(14)

−墓のある競馬場− 

 前回は、東京競馬場の花や樹木について書き、榎に
も触れた。特に、3コーナーの榎については、「ケヤキ(欅)」だと勘違いされていることを指摘しておいた。
実況放送のアナウンサーまで、「大ケヤキの向こうを」などと叫ぶのだから、誰もが「大ケヤキ」だと思い込まされてきたわけだ。モノの本を読んでも、「大欅」と紹介されているのだが、最初に間違えたのは誰だろうか。興味があって調べてみたことがあったが、この出所調べは面白い。府中には欅が多いので、あの木も欅だと思い込んだようだ。
それはさて置き、あの「大榎」の下には墓がある。井田摂津守是政とその一族の墓である。戦国時代、井田是政は後北条氏に仕えたが、天正18年(1590)、後北条氏が滅亡するや、府中の地に来て土着し、村を開いた。そこを彼の名にちなみ、「是政村」と称するようになった。競馬場の近くに残る「是政」の地名の由来は、そこからきている。
付け加えれば、井田氏の一族は三河国(愛知県の東部)井田の出という説もある。また、井田に落ち延びて井田氏を名乗るようになった、という説もある。しかし、井田家の墓地からは、鎌倉・室町時代の板碑(いたび)が出土している。これは死者の供養のために建てられるもので、特に関東に多く見られる。このことは、井田氏が鎌倉・室町時代には土地の豪族であったことを窺わせる。「是政」が地名の由来であることから言えば、井田是政は井田氏の直系の中でも、かなりの人物であったようだ。
井田是政の墓は、丁重に扱われている。開催のたびに、供養が行なわれる。レースに事故のないよう、安全を祈願する。東京競馬場ならではの祭事だ。考えてみれば、墓のある競馬場など、例がないだろう。そもそもレースをする場所としては、考えにくい。だが、
墓の1画を保存することで、競馬場が開設された。墓の1画は、今でいう特別区のようなものだ。古老の話によれば、昔は3コーナーあたりでの落馬事故が多く、3コーナーは「魔のコーナー」と呼ばれた時期があるという。墓の供養と関わりがあると噂されたようだ。
 そのようなことは、競馬場の歴史には記述されないことだろうが、歴史を彩る物語としては、語り継がれていくだろう。なお、府中の地に競馬場が開設されたのは、1933年(昭和8)。今年の11月、70周年を迎える。そのことを付け加えておきたい。

(戸明 英一)

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