2003年(平成15年)5月1日号

No.214

銀座一丁目新聞

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追悼録(129)

 大連二中の同級生、小川三郎君は長崎医大在学中の昭和20年8月9日、長崎で被爆しなくなっている。記録によれば、その日の午後2時15分、西部軍(福岡市)は「9日午前11時頃、敵大型機二機は長崎市に侵入、新型爆弾らしきものを投下せり」と発表した。東に金比羅山、西に稲佐岳、その谷あいを走る長崎本線を両方から抱きかかえるように、三菱兵器、三菱製鋼、三菱造船などの軍需工場。それを遠巻きにして商店街、長崎大学、城山住宅街。浦上天主堂はその中心にあった。原爆は一瞬のうちに死者7万3884人、負傷者7万4904人(長崎市調査)を出した。当時市の人口は28万人で、その過半数が犠牲者となった。原爆詩人・福田須磨子は詠う「無我夢中で山に登ってゆく/何所へ行くのか私は知らぬ/褌一つの生徒達、見知らぬ人達/火をふぃている家、つぶれている家/切断された電線うめく声・声・声/友の手をしっかりと握って死の行列につづく・・・・」(詩集「原子野」より)
 小川君の姉山田妙子さんによると、父親は日露戦争の時、浜寺の捕虜収容所で露兵よりロシア語を学んでいる。日露戦争で日本におくられたロシア人捕虜は7万9367人で松山、丸亀など29ケ所に収容された。最後まで残った収容所は松山と浜寺で、1906年(明治39年)2月20日に閉鎖されている。
 16歳のとき父親は敦賀からウラジオストックに渡り、貿易業の修業をし、シベリアの各地で働いた。ハルピンで結婚、後に大連で独立、店を構えた。優しい人で、中国人の店員の昼弁当が雑穀であるのを知ると、ヤミ米を買ってきて店員達にも食べさしたという。
 このころ、筆者は士官候補生として富士山のふもと西富士演習場で野営演習中であった。日記には8月9日、10日ともに小隊訓練とある。10月の卒業を控え、最後の訓練に励んでいた。長崎の原爆投下は11日午前中の週番士官の戦況報告で知った。小川君の無念の死をしるよしもなかった。父親の向学心と独立心と温情ある性格を受け継いでいる小川君は良い医者になったであろうと思う。

(柳 路夫)

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