2003年(平成15年)5月1日号

No.214

銀座一丁目新聞

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花ある風景(128)

軍歌は感性を育ててくれた

並木 徹

 先に茶説(4月10日号)で子守唄について書いた。その子守唄が きまって明治時代の軍歌であったという人がいる。「七人の侍」「鳩子の海」などの脚本家、林秀彦さんである。歌ってくれたのは祖母で、看護婦の経験があったので「婦人従軍歌」を何度も聞かされたという。「火筒の響き遠ざかる、後には虫も声立てず、吹きたつ風はなまぐさく、くれない染めし草の色・・・」どんなテレビの映像よりも、どんな映画の画面よりも、その歌詞の状況がくっきりと鮮明に頭に描かれていたそうだ(林秀彦著「悲しい時の勇気」より)。作詞者は加藤義春で、明治27年8月、新橋駅に 出征兵士を見送った時、同じ列車で戦地へ赴く若き赤十字看護婦の一隊を見て感激し、徹夜して作詞した。曲は宮内庁の楽師、奥好義である。戦前、運動会での「担架競争」の入場行進に はこの歌が欠かせないものであった。今ではこの競技も廃れてしまったが、災害時を考えれば必要なものだと思う。復活してはどうか。
 もう一つ林さんに祖母がよく歌った歌がある。明治軍歌のヒット中のヒットである「戦友」である。14番まである長い歌詞だが、林さんは祖母のお蔭でそのすべてを耳で覚えた。明治38年9月の作品である。作詞は真下飛泉、作曲は三善和気で、ともに小学校の先生である。平明で簡易な 口語体の歌詞と哀調のおびた曲で、国民から親しまれた。
 林さんはいう。「少なくとも少年だった私にとって、軍歌は感性を育ててくれた源であった。祖母だけでなく、疎開先の苦しい生活に明るい灯火を常に絶やさなかったのは、軍歌を歌う母の歌声であった」「日本の若い世代から日本人としての感性のかけらも消えてしまっている原因の一つは、子供のときに軍歌を歌わずに終わってしまったことだと、私は強く信じている」
 思えば、昭和17年夏、陸士の入学試験の作文の題は「軍歌」であった。筆者は「露営の歌」を引用して作文を書いた。作詞は薮内喜一郎で、曲は古関裕而である。この歌は昭和12年7月、支那事変が起きるとすぐに、東京日々新聞と大阪毎日新聞が戦意高揚の歌詞を公募した際、次席に選ばれたもの。古関の作曲で「昭和版戦友」として大流行した。不思議なもので一等入選の「進軍の歌」は大衆に受けなかった。古関が満州からの帰りみち、下関で新聞に掲載された次席の歌詞を見て、満州の生々しい戦跡を思い浮かべながら車中で曲を書き上げたものであった。軍歌にはたくまずして人のこころをとらえる歌詞と日本人の哀愁を伝える旋律があるといえる。だとすれば、「軍歌」というだけで一概に否定するのはおかしい。日本の歴史の中から生まれたものである。歌い継ぐべきものだと思う。これか ら大いに軍歌を歌おう。

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