生まれ育った牧場を後にした。
仲間達には、別れを告げてこなかった。
みんなが眠っている間に、緬羊舎をそっと抜け出た。
牛舎を通り過ぎる時、中をのぞくと、一頭の牛がアタシに静かな眼差しを向けた。牛のギューは、アタシの唯一の友達だ。彼だけが、この朝アタシが出発することを知っていた。ギューの目は、少し淋しそうに笑った。けれども、それは、いつものようにとても優しくて温かくて、アタシは、その瞳を一生忘れないだろうと思った。
お天道さまの光が一筋、牧場を囲む山の裏側に見えた気がした。
初めて、牧場の外に出た。
牧場入り口のバスターミナルに立って、町を見渡す。
夜明け前の静けさが、こんなに怖いと感じたことはない。町を覆う冬の朝は、思った以上に薄暗くて寒い。アタシは、腹の辺りの羊毛をぶるると震わせた。
人間が一人、舗道を歩いて来た。その人は、路上に立ち尽くすアタシを見ると、驚いた様子で目を丸くした。その後まぶたをこすり、もう一度アタシを見つめた。
アタシは、急がなくちゃと思った。ギューが教えてくれた通りに、早いところ駅に向かわなければならない。牧場の前の道を横切って渡れば、すぐそばにこどもの国駅があると、ギューは言っていた。
電車はまだ始まっていない。駅までたどり着けば、あとは、線路の枕木をたどって行けばよかった。
それなのに、なかなか脚が前に進まなくて、アタシはもたもたしていた。ああ、早く駅へ急がなくちゃならないのに。
その時だ。牧場の方から、飼育係のお兄ちゃんの声がしたのは。
「アイちゃん!」
それは、アタシの名前だった。
アタシはとっさに走り出した。
アタシの脚は、死にものぐるいで舗道をダッシュしている。駅とは別の方向へ走っていると思う。
大きな道路にぶつかった。自動車が行き交っている。まるで、四方から、車の群れがアタシめがけて突っ込んでくるようだった。
慌てて逆を振り返ると、アタシは山道を駆け上る。このまま上れば牧場に舞い戻ってしまうんじゃないかと思った時、アタシは神社の鳥居をくぐっていた。
そこは深い竹林だった。朝の日射しが木々の隙間を抜け、天から降りてくる。
「黒い羊、どうしたんだい?」
アタシは、黒い羊ではない。
「幸福な黒い羊よ、どうしたんだい?」
しかし、天の方から声がして、確かにアタシを呼んでいる。
黒い羊は希少な羊として幸運を呼ぶと、アタシも聞かされている。けれども、アタシの毛の色は黒ではない。少し青みがかっている。しかも、黒ずんだ灰色の絨毯の上にインクをこぼしたみたい。お腹の辺りを中心に、インクがまだらに飛び散っている。
「藍色だと、牧場の人たちは言いました」
アタシは答えた。
「それでは、藍の羊よ、どうしたんだい?」
神様が、アタシに喋りかけている。
「どこかへ行かなければならないんです。さっき牧場を出て来たばかりなんです」と、アタシは答えた。
「なのに、もう見つかってしまいました。だから、走って逃げて来たんです。・・・アタシ、どうしても行かなければならないんです。どうしても行く所があるんです。どうしても行きたいんです。早く行かないと・・・」
涙をためて繰り返していた。
すると神様は黙ったまま、アタシにおまじないをかけてくれた。
こうして、アタシは人間の姿をもらった。日の出の時刻を境に、昼は人間の姿になる。日の入りを境に、夜は羊の姿に戻る。
それから、神様は、アタシが急いでいる訳をたずねた。
アタシは、答えようとした。
「もしも明日が来なかったら・・・」説明しながら、言葉に詰まった。
「新しい年は来ないって。この前、子馬のポニーが、人間が話しているのを聞いたんです。羊年は来ないって。噂は、すぐさま、牧場の動物たちの間に広まりました」
地球の終えんが訪れることを、アタシは神様に伝えた。
(つづく)
|