2002年(平成14年)11月10日号

No.197

銀座一丁目新聞

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横浜便り(36)

分須 朗子

−「藍色の羊」1−

 生まれ育った牧場を後にした。
 仲間達には、別れを告げてこなかった。
 みんなが眠っている間に、緬羊舎をそっと抜け出た。
 牛舎を通り過ぎる時、中をのぞくと、一頭の牛がアタシに静かな眼差しを向けた。牛のギューは、アタシの唯一の友達だ。彼だけが、この朝アタシが出発することを知っていた。ギューの目は、少し淋しそうに笑った。けれども、それは、いつものようにとても優しくて温かくて、アタシは、その瞳を一生忘れないだろうと思った。
 お天道さまの光が一筋、牧場を囲む山の裏側に見えた気がした。

 初めて、牧場の外に出た。
 牧場入り口のバスターミナルに立って、町を見渡す。
 夜明け前の静けさが、こんなに怖いと感じたことはない。町を覆う冬の朝は、思った以上に薄暗くて寒い。アタシは、腹の辺りの羊毛をぶるると震わせた。
 人間が一人、舗道を歩いて来た。その人は、路上に立ち尽くすアタシを見ると、驚いた様子で目を丸くした。その後まぶたをこすり、もう一度アタシを見つめた。
 アタシは、急がなくちゃと思った。ギューが教えてくれた通りに、早いところ駅に向かわなければならない。牧場の前の道を横切って渡れば、すぐそばにこどもの国駅があると、ギューは言っていた。
 電車はまだ始まっていない。駅までたどり着けば、あとは、線路の枕木をたどって行けばよかった。
 それなのに、なかなか脚が前に進まなくて、アタシはもたもたしていた。ああ、早く駅へ急がなくちゃならないのに。
 その時だ。牧場の方から、飼育係のお兄ちゃんの声がしたのは。
 「アイちゃん!」
 それは、アタシの名前だった。

 アタシはとっさに走り出した。
 アタシの脚は、死にものぐるいで舗道をダッシュしている。駅とは別の方向へ走っていると思う。
 大きな道路にぶつかった。自動車が行き交っている。まるで、四方から、車の群れがアタシめがけて突っ込んでくるようだった。
 慌てて逆を振り返ると、アタシは山道を駆け上る。このまま上れば牧場に舞い戻ってしまうんじゃないかと思った時、アタシは神社の鳥居をくぐっていた。
 そこは深い竹林だった。朝の日射しが木々の隙間を抜け、天から降りてくる。
 「黒い羊、どうしたんだい?」
 アタシは、黒い羊ではない。
 「幸福な黒い羊よ、どうしたんだい?」
 しかし、天の方から声がして、確かにアタシを呼んでいる。
 黒い羊は希少な羊として幸運を呼ぶと、アタシも聞かされている。けれども、アタシの毛の色は黒ではない。少し青みがかっている。しかも、黒ずんだ灰色の絨毯の上にインクをこぼしたみたい。お腹の辺りを中心に、インクがまだらに飛び散っている。
 「藍色だと、牧場の人たちは言いました」
 アタシは答えた。
 「それでは、藍の羊よ、どうしたんだい?」
 神様が、アタシに喋りかけている。
 「どこかへ行かなければならないんです。さっき牧場を出て来たばかりなんです」と、アタシは答えた。
 「なのに、もう見つかってしまいました。だから、走って逃げて来たんです。・・・アタシ、どうしても行かなければならないんです。どうしても行く所があるんです。どうしても行きたいんです。早く行かないと・・・」
 涙をためて繰り返していた。
 すると神様は黙ったまま、アタシにおまじないをかけてくれた。
 こうして、アタシは人間の姿をもらった。日の出の時刻を境に、昼は人間の姿になる。日の入りを境に、夜は羊の姿に戻る。
 それから、神様は、アタシが急いでいる訳をたずねた。
 アタシは、答えようとした。
 「もしも明日が来なかったら・・・」説明しながら、言葉に詰まった。
 「新しい年は来ないって。この前、子馬のポニーが、人間が話しているのを聞いたんです。羊年は来ないって。噂は、すぐさま、牧場の動物たちの間に広まりました」
 地球の終えんが訪れることを、アタシは神様に伝えた。
 (つづく)



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