2002年(平成14年)5月20日号

No.180

銀座一丁目新聞

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競馬徒然草(11)

−1つの思い出− 

 今年は日中国交回復30周年。沖縄復帰30周年。30年前といえば昭和47年(1972)のこと。中年以上の人には記憶にあるだろうが、30年という歳月は長い。国や社会の出来事に限らず、人それぞれにさまざまなことがあっただろう。そんなことを考えていると、さらに7年も遡った時代の話まで、不意に蘇えってきた。ある人から聞いた、その年のダービー初体験である。記憶が蘇えったのも、折からダービーの季節であるせいかもしれない。
Kは競馬ファンではないが、馬券を買ったことはある。そんな打ち明け話を聞かされたときは、意外な思いがした。競馬とは無縁の人に思われたからである。話は、そのKの学生時代のことである。アルバイトで稼いだ金を、ダービーにそっくり投じた。それも狙った馬の単勝馬券。つまり1点勝負。こう書くと、人によってさまざまな感想を洩らすだろう。「思いっきりのよさ」、あるいは「無謀」「若気の至り」など。だが、私には安易に感想を述べる気になれないものがある。実は、父親のいない家庭に育ったことを、聞かされていたからである。アルバイトにも精を出していたようだ。学資を稼ぎたかったに違いない。なまなかなアルバイト程度では、大学に納める授業料まで賄うのは難しい時代であった。昭和40年(1965)のことである。
 Kが狙った馬は、キーストン。古いファンなら、馬名ぐらいは記憶にあるだろう。関西の快速馬で、6連勝して東上した。緒戦のスプリングステークスは、逃げまくったものの掴まって2着。敗れはしたが、そのスピードぶりは注目された。ところが、2戦目の皐月賞はどうしたことか、なんと14着に沈んだ。そしてダービーを迎えた。あいにく天候は雨。馬場状態が悪化ときては、得意のスピードも減殺される。取捨の難しいところだ。それでもプラス材料はあった。それまで道悪競馬には4回出走して、4回とも勝っていることだ。そのことに縋り付くように、Kは賭けた。この決断には、多分に心情的なものが含まれていた。
 ひときわ小柄なキーストンに肩入れしたのは、自身も体が小さかったからである。大型馬を尻目に快速を飛ばす小柄なキーストン。それは確かにコンプレックスを吹き飛ばした。恵まれない家庭、暗い青春。それは滅多に他人には語れないものであっただろう。Kは、走るキーストンに自分の分身を見ていた。
 さて、レースである。その小柄なキーストンが、雨の不良馬場をものともせず、果敢に快速を飛ばし、見事に逃げ切った。Kは飛び上がり、言葉にならない叫び声を上げた。
その後のことに触れる。キーストンは関西に戻ってから、レース中に骨折し、予後不良(薬殺処分)となった。それを機に、Kは競馬から遠ざかった。痛ましい事故の想いがそうさせた。私は記録の上でしかキーストンを知らない。だが、忘れられない馬の1頭になったような気がする。なぜなら、Kの話が不意に蘇えってくることがあるからである。今年のダービーでは、記憶に残る馬が現れるだろうか。

(宇曾裕三)

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