2002年(平成14年)5月10日号

No.179

銀座一丁目新聞

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横浜便り(30)

分須 朗子

−短い物語 「ベクトル」3 〜金波鉄道の夜〜−

 メイが目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。列車は音も立てずに走っている。
 メイは、そうっと窓の外をのぞいて、あっと息を飲んだ。
 すぐそこに、大きな三日月がのっそりと構えていた。月は海原に浮かび、水面では月の雫がキラキラと砕け散る。さざ波は金色に輝いていた。
 どこからともなく、心地よい音の旋律が、列車の中に流れ込んでくる。きっと駅の到着を告げるものだろうと、メイは思った。

 月の駅では、物売りたちが列車の到着を待ち受けていた。
 月見だんご屋、花屋、夕飯屋、月の雫屋・・・色とりどりのカゴをかついだ男女がにぎやかに動き回っている。
 一人の物売りが、ケンとメイの所に寄ってきて、窓をコツコツと叩いた。初老の男だった。
 ケンが窓を少し開けると、男は顔をのぞかせて言った。
 「おみやげにベクトルはいかがかな?」
 男のカゴには“ベクトル屋”と書いてある。
 「おみやげ?」ケンが聞き返した。
 「現実世界へのおみやげにとてもいいよ」
 男は、カゴの中から大小さまざまな矢の形をした“ベクトル”を取り出した。
 「それ、何?」ケンはたずねた。
 「力の方向」と、ベクトル屋は答えた。
 ケンは身を乗り出し、大仰な造りの矢を手に取った。すると、ベクトル屋は、
 「男らしいいい物を選んだね。若いのにお目が高い」と、感心してみせた。
 それは、“権力”だった。
 「ただし、使いこなすには技能が要る。取り扱い注意の印が見えるだろう?」と、ベクトル屋は言った。
 「どうして、取り扱い注意なの?」ケンがたずねると、
 「時に、もろくも崩れやすいからさ」と、ベクトル屋は答えた。
 さらに、ベクトル屋は、華美な矢を一本、ケンに差し出して言った。
 「“金力”はどうだろう?」
 すかさずメイが、
 「取り扱い注意の印があるわ」と言って、そっぽを向いた。ケンは、困った顔をした。
 ベクトル屋は、メイの顔をじっと見ていた。それから、カゴの奥を手探りした。
 「特別に、条件つきのベクトルがある」と言って、ベクトル屋がメイに差し出したのは“神力”だった。力を尽くした者にだけ、天が力を貸してくれるという条件だった。
 「頑張れば、神様が味方してくれるのね」と、メイの表情がぱっと明るくなった。だが、ケンは心配げに言った。
 「メイ、頑張ることないのに・・・」
 しかし、メイはすっきりと笑った。
 「ケンは、さっきの強そうなベクトルを選んでいいんだよ」
 「どうして?」
 「ケンがベクトルを上手に使いこなせるように、私が頑張って応援するんだから」
 「でも、本当はいやなんでしょう?」ケンが問いかけると、メイは首を横に振った。
 「私はね、ケンの選択が信じられるんだ。・・・もし私が男だったら、そうすると思う」
 ケンは黙ったまま、何か考えていた。そして、ベクトル屋にたずねた。
 「守る力とかないの?」
 すると、ベクトル屋はためらうことなく、“戦力”をケンに手渡した。条件付きの印があった。大切なものを守るためだけに力を発揮するという条件だった。
 「それに、勝つか負けるかは、自分の力次第」と、ベクトル屋は最後に加えて言った。

 うつらうつらしていたと思う。メイが気づくと、列車は夜の街の中を過ぎていく。車窓の遠くに、みなとみらいのイルミネーションがのぞいた。
 「もうすぐ横浜駅だよ」と、ケンの声がした。
 メイは窓の外に目をやって、ガラスに映るケンの顔を見た。
 「ケン、私は夢を見ていたの?」
 ケンは、窓越しのメイに笑いかけた。
 「ちゃんと覚えてる?」
 「うん、ぜんぶ覚えてる」
 「じゃあ、本当のことだよ」
 メイも、ケンに笑いかけた。
 「楽しかったね」
 「また行こう」
 メイは、嬉しい気持ちだった。
 「・・・現実と夢を行ったり来たりするの、サイコーだね」
 メイが言うと、ケンは大きくうなづいた。
 「サイコーだ」
 二人は、互いの手をしっかりと握りしめた。
 日曜の夜の駅構内は、閑散としていた。ビル群の合間に、金色の三日月が優しく笑っている。
(おわり)



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