2002年(平成14年)5月10日号

No.179

銀座一丁目新聞

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花ある風景(93)

 並木 徹

 知人で、韓国ソウルに住む韓日伝統文化交流協会の会長、趙満済さんから「KOREA TODY」4月号が贈られてきた。この月刊誌に「百済武寧王の生誕地を巡る国際シンポジウム」(1月14日、佐賀県鎮西町名護屋城博物館ホールで開催)の一文を書いている。趙さんから武寧王の生まれたところは佐賀県鎮西町の加唐島(カカラシマ・古代各羅島)であり、日本書紀の記述が正しいと聞かされていた。2年前にそれに関する資料までいただいた。慶北大学校教授、文鉉さんの「百済王武寧王の出自に関して」の論文である。 
 今回はシンポジウム前に文教授、趙さんをはじめ、関係者70人が、船をチャーターして加唐島を訪れるほどの熱の入れようであった。趙さんはこの島に何度も足を運んでいる。玄海灘に浮かぶこの島は唐津港から船で20分位でつく。人口255人(67世帯)、面積2.8平方km、島の周囲は12kmしかない。
 日本書紀には二つの史料がある。ひとつは雄略紀五年(461年)四月条の記述、もうひとつは武烈紀四年条の『百済新撰』の記述である。いれも漢文体で書かれている。意訳して注をつける。「武寧王は筑紫各羅島で生まれた(雄略5年6月、461年)。即ち、百済の蓋鹵王(加須利君)は弟の昆支君(軍君)を倭に派遣するにあたり、昆支君の頼みですでに身ごもっている自分の夫人を与えた。若し、倭に向かう途中で出産したら産母とその子は直ちに国送りせよ、と言って旅に立たせたところ、途中、各羅島で出産、国に返したその子が後に武寧王に即位した(501年、在位23年、62歳で亡くなる)」と記述している。また『百済新撰によると、末多王(東城王)が道に外れ、悪政をひいたので、これを取り除き、武寧王をたてた。おくり名を斯麻王という。昆支王の子である。末多王とは異母の兄にあたる』とある。
 ところが、武寧王の出自について、「三国史記」百済本記は武寧王は東城王の第ニ子になっており、「三国遺事」にも同じことが書かれている。武寧王の系譜が違うのである。文教授は「日本書紀」の記述のほうが信憑性が高いとしている。
 さらに、1971年に発見された武寧王陵のなから出てきた墓誌名と買地券にある王のいみなや没年齢から逆算すれば、生年が日本書紀の記述と一致し特に王の棺が高野槇であることがわかった。この槇は日本の特産品であった。
趙さんは『昨今、韓日両国においては歴史認識に関して真偽をはっきりと言わない傾向が多い。即ち、自分の良心では認めながら世間の風潮を意識して真を偽と言ったり、その逆をいう日本の一部学者に警鐘を鳴らしたい』と訴えている。

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