敵が攻めてきたらどうするか、今の日本にはこれに対処する法律がない。こんな国は世界を探してもどこもない。たとえば、防御陣地ひとつさでも構築できない。民間の土地に作るとなると、土地収用法の手続きを経なければならない。緊急事態にそのような悠長なことをいってはおられない。戦争は起こらないものと思い込んでいる。戦争である以上、敵を圧倒殲滅せねばならない。武器使用について何らの制約もいらないし、敵の陣地攻撃を手控える必要もない。若し、自衛隊の作戦、戦闘行動を縛るような法律があれば、改めるのが当然である。
「敵」は攻めてくるのか。国として国民の生命、財産を守るため、常に「最悪の事態」を考えておかなくてはならない。友好善意の国ばかりとはいえない。現に日本人の拉致事件が起きているではないか。大量の生物化学兵器をそなえている国があるといわれる。少なくとも備えをしておく必要はある。
武力攻撃の定義についてあいまいであるという批判がある。「敵」の攻撃のありようは千差万別である。どんな形でくるか予測はつかない。そのため対応は柔軟にしておいたほうがよい。9・11テロを見てもわかるように、新しい型の戦争が起きている。
「戦争」ともなれば、国民は協力するのが当然だと思うが、そうではないのか。もちろん、非戦論を唱える自由は認める。作戦行動に必要な食料や燃料を保管する業者が命令や指示にしたがわねば戦争は遂行できない。
むしろ、中国と韓国の反応のほうがまともである。中国政府は「日本が専守防衛政策を厳格に守り、平和と発展の道を進む事を希望する」(外務省報道官)と強い関心を示す。韓国メデイアは「『戦争できる普通の国家』へまた一歩踏み出した」(17日付の朝鮮日報早版)東亞日報も東京発で「日本の武力使用の可能性がさらに大きくなり、憲法改定と集団自衛権確保への道を開くと憂慮される」と解説した(いずれも4月17日朝日新聞より)。
問題なのは、憲法との関係である。戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認をうたった9条の解釈と運用である。これまで憲法は自衛のための戦争や武力行使まで否定していない。個別自衛権はあるとして今日までやってきた。海上自衛隊の自衛艦は、湾岸戦争の終わった後、ペルシャ湾に掃海艇を派遣、一番作業の困難なところで34個の機雷を処分した(1991年7月)。さらに、アフガン戦争では米海軍に協力する為、自衛艦を出動させ、給油、物資補給を行なった。このさい、テロ対策特別措置法が出来た。そのつど、同盟国米国と国連の平和維持政策のため、国際協力上やむを得ないとして、なし崩し的に進められてきた。すでに、軍隊として十分機能できるのにかかわらずに、その手足をしばっている。
考えてみれば、1950年7月警察予備隊発足から白を黒といい、黒を白といってきた。歩兵を普通科、工兵を施設科、砲兵を特科、戦車を特車など称している。
いつまでごまかすつもりなのか。現に軍隊が存在するではないか。憲法9条を改正して自衛のための軍隊をもつと明記するほうがすっきりする。平和主義を標榜する憲法を持つ国は日本だけではない。世界に120数ヶ国あるという。平和主義が悪いといっているのではない。『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』などというのは非現実的であると早く悟り、常に最悪の事態を考慮して対処するのが世界の常識である。いつまでも言葉をもてあそび、解釈だけでその場その場を処理すればよいというものではあるまい。
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