2002年(平成14年)5月1日号

No.178

銀座一丁目新聞

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追悼録(93)

 毎日新聞社会部の同期生、安永道義君の事を書く。ガンに冒されながら最後までペンをはなさず、下野新聞一面のコラム『平和塔』を書きつづけた。11年間にその数3533本にのぼる。
 彼とはいくつかの共通点がある。ともに軍人の息子である。安永篤次郎さんは陸士27期(大正2年入校)で陸軍中将である。航空畑を歩まれたと聞く。安永君は昭和19年10月、陸軍特別操縦見習士官(特操)として、早稲田から学徒出陣する。筆者の父は、少尉候補生の4期(大正12年陸士入校)で陸軍大尉である。予備役後ハルピン学院の生徒監をつとめた。その志をついで私は昭和18年4月、陸士(59期)に入る。剣道はともに有段者である。戦後は二人とも社会部の「サツ廻り」から新聞記者をスタートする。下山事件(昭和24年7月)、三鷹事件(同)と大きな事件に狩り出され、苦労した仲間である。
 洒脱で男前の彼はよく女性にもてた。他意はない。女性にもてない記者は取材が下手であるといいたいだけである。熊本支局長時代の彼の部下であった三原浩良君(葦書房社長)は「支局長と呼ばせず、『のんベえ安』で通した。当時の支局は自由闊達な雰囲気であった。若い記者も先輩記者に容赦のない批判を浴びせ掛けていた」と書いている。「頑固で協調心がない君は支局長には向かない」とある社会部長(故人)からいわれ、ついに支局長を経験しなかった私には、羨ましい話である。
 安永君の『平和塔』から引用する。「敗戦の日」(昭和59年8月15日)『来年は戦後40年。戦後が終わり、新たな戦前が始まったているという人がいる。それが現代とも言う。戦後世代は平和にどっぷりとひたりきる。だが今日の平和は何によってもたされたものか。このことは忘れてほしくない』
 スポニチ時代に知りあったエッセイストの志賀かう子さんも一文を寄せている。志賀さんと会うと、必ず、安永君や夫人のみさをさんの話になる。「どんな雑談の合間にもメモ用紙にペンを走らせ、人の言葉に耳を傾け、風や光のやさしさをも先生の眼はとらえる。文を書くことの真髄をそこから学び、つねに五感を働かせるご様子に私は身の引きしまるのを覚えたものだった」としるす。
 平成4年1月16日、66歳でなくなった。下野新聞の平成4年1月18日の「平和塔」には「がん告知の恐怖にもたじろくことなく、死の淵瀬までペンを滑らせた不屈の精神力。生涯一記者、コラムニストの姿勢を、いま後輩たちは誇りに思う」とある。

(柳 路夫)

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