2002年(平成14年)4月1日号

No.175

銀座一丁目新聞

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追悼録(90)

 「説明するための言葉が見つからない。見つかるとすれば『おお神よ、われわれは何をしてしまったのか』という言葉だろうか」
 これは1945年(昭和20年)8月6日、広島に原爆を投下したB−29(愛称エノラ・ゲイ)の副機長、故ロバート・ルイス大尉の感想である。私達が始めて知る米搭乗員の言葉である。3月27日ニューヨークでルイス大尉の直筆のメモが競売にかけられることになって明らかになった。死傷者13万人を出した犠牲者のためにも平和を求めて機会あるごとに、原爆の悲劇を語りついでゆかねばならない。
 ここで原爆投下機B−29の8月6日の行動を追う。堀栄三著「大本営参謀の情報戦記」によると、この日午前3時ごろV600のコールサインでワシントンへ電波をだす。2、3機の編隊とみられた。実は日本は原爆投下機のコールサインを昭和20年5月中旬頃から掴み、ある程度その行動を追っていた。テニアンに進出した、きわめて小さい部隊であった。正体不明のB−29の一群は6月末ごろからテニアン近海を飛行しだした。7月中旬には日本近海まで足を伸ばして再びテニアンに帰投する奇妙な行動が出始めた。明らかに『特殊任務』を持つものとわかったが、その明確なる企図はついに掴めなかった。
 午前4時頃硫黄島の米軍基地に『我目標に進行中』の無線電話を発信する。午前7時20分頃、B−29が一機、豊後水道水の子灯台上空から広島上空に達し、播磨灘に東進中、簡単な電報を発信する。秦郁彦著『八月十五日の空』には、このB−29はイーザリー少佐の操縦する「ストレート・フラシュ」号で、後発の「エノラ・ゲイ」のために、広島上空の気象資料『天候快晴、雲量一、爆撃条件良好』という報告を送ったとある。
 午前8時6分、ニ機のB−29が豊後水道とは反対の東の方から広島上空に突入、午前8時15分原子爆弾を投下する。原爆機「エノラ・ゲイ」の機長はポール・チベッツ大佐、爆撃手はトム・フィルビー少佐、機上で起爆装置を作動させたのは技術者のパーソンズ海軍大佐であった。もう一機は観測機の「グレート・アーチスト」で、観測計器を積んだ三個のパラシュートを投下した(前掲「八月十五日の空」による)。
 ルイス大尉は着弾後のきのこ雲を見ながら『あと百年生きたとしてもこの数分間は忘れない。この瞬間一体何人が死んだのであろうか』と書き残している。
 堀さんの本によると、スェーデンを経て入手したM−209暗号機での解読が完成するのは、原爆投下後で、その暗号機の解読で「ヌクレア(核)」という文字が出たのは8月11日であった。「原爆投下をたとへ半日でも前に情報的に見抜けなかったことは情報部の完敗である」といい、戦後もなお情報収集の重要性を訴えつづけた。情報参謀として抜群の功績をあげった堀さんは平成7年6月、82歳でこの世をさった。

(柳 路夫)

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