2005年(平成17年)8月1日号

No.295

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北海道物語
(12)

「旭川屯田兵物語」

−宮崎 徹−

  旭川市の中心部の常磐公園の入り口にブロンズの「永山武四郎之像」がある。此の像は昭和四十二年、開道百年を記念して北海道開拓に功労のあった四人を顕彰するために全道から募金をして建てられたモニュマンである。札幌には黒田清隆・ケプロン・岩村通俊・旭川には永山武四郎で、札幌以外の都市では旭川だけに永山像があるのは、当地への氏の深い貢献があった故だらう。作者は北村西望。高さは二九四糎。
 永山武四郎は鹿児島の出身である。戊申の役で功を樹てた軍人としての氏は、旧幕府時代から続くロシアの南下政策の圧力と、常備軍を置く必要を政府に説き自から其の長となった。屯田とは中国で漢の時代から例の有った辺境を守る為の農と兵とを兼ねる 制度である。旧幕府の士族を募って、北辺を守る任務を意識する入植者を札幌の琴似ほか道央に集めた。明治十八年。此の物語シリーズの(六)にも記した様に、岩村通俊氏の上川探検に同行して永山氏も神居古潭を遡上して現在の旭川にある近文山に登った。武人一筋の氏は、今日の言葉で言えば地政学的に上川原野を見ただろう。西南の役にも出征し、敬愛する大先輩の西郷さんとも戦った経験からすれば、熊本の鎭台と同様に、此の地に大兵団を置くべしと思ったことだろう。民政の上から旭川に北京(ほっきょう)を置く夢を抱いた岩村長官の後を受けて第二代の北海道長官となった永山氏は、内陸部の民力培養の為に氏族以外の一般平民から屯田兵を募集して、警備本位から農業開発に重きを置く「平民屯田」を上川に展開した。
 明治二十四年。永山村に四百戸の平民屯田が生まれた。永山村の翌年東旭川村にも四百戸。永山は平地だった為に機械を使っての開墾で、翌年からは農耕馬も調達し、希望する屯田兵に売り渡した。一方東旭川は全くの原始 林で、生い茂るクマザサは機械が使えず、人手で除去する手作業労働だった。当時の水田の田植の写眞を見ると、一反に二、三株は人間の背に近い巨木の根がある。積雪の冬の間に木を伐るのだが、雪の深さだけの高さの根塊が 残る。春になると其の部分だけ除いて苗を植え草を取る過酷な農耕の間に、訓練も行ったのである。収穫期近い畑の作物を羆(ひぐま)が荒らし、冬は本州と桁違いの寒さである。今旭川市と合併した東旭川の兵村記念館は当時を偲ばせる貴重な資料が多く一見に値する。兵農一体の屯田制度の効果は、此の平民屯田の成功によって立証されたのである。
 明治十七年。政府は公卿と旧大名のために明治二年にもうけた華族制度を拡大して国家に勲功のあった者を加え、英国の例を模して公・侯・伯・子・男という五つのクラスの爵位を作って貴族院の要とした。国家の勲功には官僚・経済人・軍人等があり、日清戦争の終わったあと、桂太郎・乃木希典など中将七名、永山武四郎など少将十九名が武功で男爵となった。明治二十八年には前回書いた川田小一郎氏も日銀総裁・戦費調達の功で男爵になった。
 明治二十九年。北海道に第七師団が生まれ、永山氏は初代の師団長になった。それまで陸軍には東京・大阪・仙台・名古屋・広島・熊本に六つの鎭台が師団と改名され、六ヶ師団に加えて新しく第七師団が出来た。其の師団を札幌から旭川に移動することになった時、永山師団長は明治十八年の近文山の登頂を思い出したのかも知れない。北海道炭坑鉄道が空知太(滝川)まで石炭の為明治二十五年に敷かれていたが、旭川までは道庁鉄道部によって明治三十一年に開通した。(此の物語の(九)参照)これを師団の移設の作業のためと解釈すると永山武四郎氏像の意義が永く不動のものになる。
 明治三十五年に貴族院議員に選ばれ、東京住まいとなったが、札幌の自宅が北海道に骨を埋める覚悟の男爵の帰る場所で、在京中に病に伏して六十八才でなくなられたが、屯田兵達に常に北海道の土となれと云って来た信念通り、遺志により北海道で葬儀を行い、現在も札幌の里塚霊園に眠って居られる。
 爵位は世襲である。嗣子武敏氏も男爵となり日露戦争の二○三高地で負傷、陸軍大佐で予備役となり貴族院議委員。更に武敏子の長男敏行氏も襲爵したが、昭和の敗戦で華族制度は廃止された。子の令弟武臣氏は有名な松竹の社長である。平成三年からは会長、日本演劇協会の会長もつとめられている。
 常磐公園には、永山北海道庁第二代長官のブロンズの他に岩村通俊初代北海道長官の像がある。内陸都市旭川の発展の第一ページを開いた方でもある。銅像は昭和初期旭川有志の拠金でつくられたが、戦争中供出となり、終戦直後再生された像は素材の関係で崩れたので、平成二年旭川の開基百年を記念して、遺族と民間とで新造。一五○糎のブロンズ像が緑の中に建っている。同じく開道百年に、岩村男爵のブロンズ像が札幌の円山公園内に建てられた。佐藤忠良氏の作品である。
 永山町は昭和三十六年、東旭川町は三十八年、旭川市に合併となった。前者は流通団地として機能を持つが一部には田園の風景を残して、一世紀前の先人の遺功が輝いている。

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