2005年(平成17年)8月1日号

No.295

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茶説

戦後60年目の原爆忌

牧念人 悠々

 今年で戦後60年目の原爆忌(8月6日広島、8月9日長崎)を迎える。世界で唯一の被爆国である日本人はどのような形にせよ機会あるごとに語り継いでいかなければならない。井上さんの口癖で表現すれば「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」である。
 澤地久枝さんの「地図のない旅」(主婦の友社刊)には香港で上演された井上ひさし作・こまつ座の「父と暮らせば」の観劇記(2004年12月8日)がある。同行者は毎日新聞の佐藤由紀編集委員。場所は香港島側の「香港藝術中心寿臣劇院」。午後の部と夜の部と二回見ている。配役は福吉竹造に辻満長、美津江に西尾まり。私はこの芝居を昨年(7月27日・紀伊国屋サザンシアター)をふくめて三度見ている。何時も美津江さんの言葉に泣かされる。澤地さんは書く。「特に夜の最終回は、舞台と客席がとけあうようになって、まことによかった。現地香港の人たちが、言葉の壁など乗り越えて。笑ったり泣いたりしていた」(中国語字幕あり)。この観客の反応は2001年6月のロシア公演・配役・沖恂一郎・斎藤とも子(6月5日から3日間・モスクワ・エトセトラ劇場)と勝ると劣らなかったであろう。この公演のカーテンコールの時、凄まじい拍手が巻き起こりあちこちから「ブラボー」と声が掛かった。拍手しながら立ち上がった観客は舞台の方へ寄っていったという。こうするのが素晴らしい出し物を見たときの礼儀だそうである。広島型原爆の約20倍の威力を持つチェルノブイリ原発の爆発で死者累計20万、被災地住人260万人以上を出した事故から15年目であった。
澤地さんは言う。『「父と暮らせば」の父と娘は理屈も言わぬ。告発もせぬ。娘はひたすら己を責めている。だがドラマの背景に静かに広がるのは、この世のあるかぎりこんなむごいことは二度とくりかえされてはならぬという被爆者の哀切きわまる祈りである』
 東京裁判の全被告に無罪判決を書いたインドのパール博士もこの原爆投下について言及している。博士は第一次大戦で無差別殺人を命令したドイツのウイルヘルム二世が国際法の違反と人道上の罪で戦争犯罪人に指名された事例をとりあげて、「太平洋戦争でこの事例に近いものがあるとするならばそれはアメリカの指導者によってなされた原子爆弾使用決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう」と判決文の中で書いている。この裁判で梅津美治郎大将の弁護人B・ブレークニーさん(米国人)がスチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出しようとして却下されている。
 ―さいしょの人体実験ガ、ヒロシマへの原爆投下だった。日本軍の呼号する「本土決戦」による米軍GI五十万人の命を救うためであったというのは言い訳でしかない。どうしても原爆投下は避けられなかったという人に問いたい。なぜ、ナガサキが必要だったのか。と。―(「地図のない旅」の95ページ)。

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