2004年(平成16年)5月1日号

No.250

銀座一丁目新聞

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追悼録(165)

樺美智子さんの死を含めた6月15日の事
 

  友達に進められて大島幹雄さんの「虚業成れり」−「呼び屋」神彰の生涯−を読んだ。その中でこんな記述がある。この日レニングラード・バレエ団は「白鳥の湖」を上演していた。静かな公演だった。(略)公演前にちょっとした事件があった。「血だらけになった有名な日本人バレエ関係者が楽屋に飛び込んできた、追われているから助けてくって。こっちは劇場の中にいるからね、安全といえば安全なわけですよ。しかも公演しているのはソ連からきたバレエ団だからね。アメリカに対立しているということもあったし、ここへくれば助けて貰えると思ったとあとでいってました」(木原・啓允。神の片腕)この日とは昭和35年6月15日。安保阻止第二次実力行使が行われた日である。宝塚劇場でバレエの公演が開かれていたとは知らなかった。私は現場に行かずに毎日新聞の社会部で第二社会面のまとめをやらされた。この夜、衆院南通用門付近の学生と警官隊との乱闘で東大生、樺美智子さん(22)が死んだ。現場からぞくぞく寄せられる記事を総合すると、警官隊がわざと学生たちを南通用門から構内へ引き入れ、逆襲に出る作戦を取ったとしか思えなかった。6月16日の新聞で「死の乱闘」について「学生たちが鉄条網を破って構内に入ろうとした時、警官隊が後退してデモ隊に道を明けるような格好をした。多数の学生がおしこんで行ったところ警官隊は逆襲に出た。一時後退は警官の作戦らしかったと分析している(「毎日の3世紀」新聞が見つめた激流130年より)。当時毎日新聞の警視庁記者クラブキャップであった佐々木武惟さんはその著「事件記者」の中で次のようなエピソードを披露している。後日、佐々木さんは通用門の内側には腕ききの機動隊が警備していたのに、何故入られてしまったんですか、と幹部に聞いたそうである。「一般の住宅でもそうでしょう。『ごめんください』といって入った者が住居侵入になりますか。土足のまま強引に上がり込んだらなりますよ。それと同じです」と少ない言葉で表現したという。
 樺美智子さんの名前を偶然、死ぬ前から知っていた。この年の1月、美智子さんは羽田での新安保条約調印全権団の渡米阻止闘争の参加、座り込みをして逮捕されている。このとき、77人の逮捕者の中には東大教授の息子もおれば著名な人々の子女も多くいた。そこで「組織の子」と「家庭の子」いうテーマで美智子さんの父親、中央大学教授樺俊雄さんや東大教授らに会い話を聞いて原稿を書いた。当時の社会面のトップを飾った。美智子さんの墓が私の住む府中のそばにある多摩墓地にある。墓誌には『最後に人知れずほほえみたいものだ』の詩が刻み込まれている。安保騒動から44年。日米同盟、国際協調、憲法改正と時代は常に激動を続ける。

(柳 路夫)

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