2004年(平成16年)5月1日号

No.250

銀座一丁目新聞

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安全地帯(75)

−信濃太郎−

浅科村の権現山は桜の名所となる
 

 長野県浅科村の権現山の碑前祭と観桜会に参加した(4月24日)。望月をふくむこの一帯は陸士59期の地上兵科が昭和20年6月から8月31日の復員まで長期演習の名目で疎開したところである。権現山は8中隊(中隊長中山生藤少佐・47期)の歩兵が南御牧村国民学校を仮の兵舎としながら毎朝、軍人勅諭を奉唱、遥拝した場所である。私の7中隊(中隊長村井頼正少佐・49期)はここから西にある協和村国民学校にあった。
 権現山には当時の村長、依田英房さんが昭和41年に建てた「皇居遥拝跡」の碑がある。碑文にいう。「大東亜戦争ノ頽勢日ニ日ニ苛烈ナル昭和廿年六月末陸軍士官学校五十九期生尾張隊一八九名ハ中山第三中隊長以下十三名幹部ノ引率ノ下ニ我が御牧学校ニ移駐セリ爾後毎朝此ノ丘上ニ東天遥カニ皇居ヲ拝シ以ッテ決戦ノ英気ヲ養ヒ内ニ外ニ日夜鍛錬ニ力メタリ八月十五日万世泰平ノ聖詔ヲ奉ジテ皇軍悉クガ戈ヲ止ムルニ至ルヤ当隊亦斯ノ山上ニ慟哭解隊シテ遂ニ四散ニ及ビタリ爾来爰ニ二十年刻シテ其ノ芳ヲ後昆ニ流フ」
 この日集った同期生は19名(婦人1名)。兵科は歩兵だけでなく、航空、船舶、重砲の同期生も姿を見せた。55期の森泉猛さん(佐久市在住)、佐藤浅科村村長、依田さんの遺族も碑前祭に出席され、挨拶された。
 私たちは平成元年4月29日「みどりの日」にこの地に櫻の木を50本を植えた。種類は多種である。ソメイヨシノ、フゲン、オオヤマ、カンザン、ウコン、シダレ、シロタエ、ヤエベニ、スガルダイ。八重桜が30本、一重櫻が20本である。早咲きの桜から遅咲きの桜を揃えているのだが、今年ばかりはほとんどの櫻が散っていた。私達の思い出の地ではあるが、やがてこの権現山が櫻の名所となるのは間違いあるまい。
 昼食は創業正長元年(1428年)という足利時代からの老舗、佐久ホテルで頂く。一茶、北斎、藤村もこの宿を訪れたという。割り箸を納めた紙袋には「花は雨に散るとも知らで鳴く蛙」(杉本宗大夫)とあった。同期生がこの地で詠んだ歌を思い出した。「わが国のつつじの花と見つれども本科武助は食えるかと問うらん」前九年の役で源頼義に敗れて京都に連行された安倍宗任が京の公家貴族の前で歌った歌をもじったものである。あの頃は常にひもじい思いをした。現地自活と称して荒地を開墾して大豆の種をまいた。この種を焼いて食べた。つつじの花も食べた。それほど当時の食糧事情が悪かった。18代にわたって受け継がれたホテルの料理は美味であった。平和のよさをしみじみと味わう。隣にいた安田新一君(歩兵)がこんな話をした。安田君の父、宇之助さんが昭和18年3月、陸士入校記念にと東京・西荻窪の自宅(現在弟さんが住んでいる)の庭に10本の桜の木を植えた。息子の戦死をひそかに案じての植樹であったであろうと安田君は思った。60年たった今、一本だけが大きく成長して今年も見事な櫻を咲かせた。あとの九本は手ぜまになったので惜しくもきってしまったという。権現山で山内長昌君(重砲)がタンポポを摘んで「これが和生のタンポポ」、「これが洋生のタンポポ」と説明、今に洋生のタンポポが和生を駆逐してしまうでしょうと話する。博学な山内君には刺激を受ける。宴席では万事に控えめな私に植竹與志雄君(船舶)がわざわざ同席した小諸新聞の婦人記者を紹介してくれた。後日、私の著書「女性が読まない新聞は滅びる」を送る約束をした(4月26日発送)。陸士では切磋琢磨が奨励された。今でも同期生からそれとなく切磋琢磨されるのは嬉しい限りである。

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