1999年(平成11年)7月20日

No.80

銀座一丁目新聞

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“針の穴から世界をのぞく(26)”

 ユージン・リッジウッド

ヒーローの誕生

 [ニューヨーク発]一人の男が消えた。そしてヒーローになった。男の名はジョン・F・ケネディ・ジュニア。38歳。誰からも惜しまれるに十分な若さだった。そして誰からも悲劇のヒーローとして認められるに十分な境遇だった。

 ケネディー家を取り巻く悲運は語り尽くされている。銀行家として成功したアイルランド系移民二世の男の下に生まれた4人の息子のうち、長男はビジネスで成功した父の薫陶よろしきを得て将来大統領に打って出ることを夢見ながら、青年にして飛行機事故で命を落とした。次男は長男の果たせなかった大統領になる夢をかなえたものの、現職大統領のまま凶弾に倒れた。三男は二人の兄の夢を引き継いで大統領まで後一歩というところでやはり暗殺の魔手にかかり、四男は自ら招いた事故と一族の族長としての責任から凶弾の危険に身をさらす大統領への道を断念した。

 大統領への夢を完成させたただ一人の息子ジョン・F・ケネディの未亡人、ジャクリーンは夫の暗殺事件後、政治家の運命とアメリカの東部エスタブリッシュメントには見事なまでに見切りをつけ、故大統領とは似ても似つかぬ短身肥満高齢のギリシャ人富豪と再婚して、アメリカ人を驚かせたばかりか、元アメリカ大統領夫人というアメリカ社会での栄光と地位を完全なまでに拭い去った。その母の下で育てられた娘と息子は、余り世間に騒がれることなくいつのまにか一流の教育を身につけて成人し、政治に打って出ることもなく、普通の社会人としての道を静かにそしてちょっぴり華麗に歩んでいた。気軽に地下鉄に乗り、街角のテラス・レストランの簡素ないすに座って談笑しているケネディ・ジュニアの姿を多くの人が見かけた。

 プライバシーを何よりも優先させる母の教えを受けた娘キャロラインは、ロー・スクール(法律大学院)を出てプライバシーの権利に関する本まで出したりしたものの、自らは静かなプライバシーを守る生活を実践し、亡き父の華麗な一族との交流を避けて通した。一方人を引き付ける魅力では故大統領にも劣らないと言われたケネディ・ジュニアは、検事を務めた後、「ジョージ」という名の政治文化雑誌の創刊者となり、社会の第一線でのキャリアーを積み重ねている最中だった。これまで決してヒーローと呼ばれる姿を見せることはなかった。

 ところがアメリカ人のヒーロー願望はとっくにジュニアの中にその芽を見つけていた。いやこの表現は必ずしも正確ではない。アメリカ人のヒーロー願望と言うより、マスコミのヒーロー願望と言った方が正しい。同じ青年大統領であっても、ビル・クリントンは決してマスコミの好むヒーローではない。この苛立ちがクリントンの素行不良を機に爆発して、通常は冷静さを誇りとする一流紙までが国家のありようと関係のない大統領の私的スキャンダル報道に明け暮れる始末となった。

 ジョン・F・ケネディ・ジュニアの死(捜索関係者は18日夕生存絶望と断定)は本人の死そのものによる悲しみもさりながら、まさにヒーロー待望の芽を摘み取られた悲しみと呼ぶべきだろう。国民すべてと共に熱狂出来るヒーローが欲しい。そのヒーロー願望はマスコミにとってもう何十年もかなえられないままだ。自分がまだジャーナリストになっていない幼いとき、一世代上のジャーナリストたちはジョン・F・ケネディという青年大統領の誕生に熱狂した。そしてその大統領の突然の死で悲劇の参加者となることを体験した。しかし自分たちはそのような大統領の誕生の興奮も突然の死の悲しみも知らない。

 ジャーナリストとしての最高の精神的高揚をいまだ知り得ない潜在的な欲求不満が、未完成のヒーローの悲運に突然投影されたのが今回のマスコミ現象かも知れない。ケネディ・ジュニア操縦の小型機行方不明という報道で見せる米マスコミの半狂乱に近い特報ぶりを理解するには、悲劇の目撃者、悲劇の立会人としての疑似体験願望で説明するよりほかはない。まるで国家いや世界の英雄の死に匹敵するような報道ぶりだ。それはダイアナ妃の不慮の死以来のものであり、アメリカのマスコミとしてはそれを超えるものでもある。

 父を亡くし、母を亡くし、たった一人の肉親である弟ケネディ・ジュニアを亡くした姉キャロラインは、夫と3人の子供と共に西部を旅行中だったが、弟の事故の一報以来、事故現場に近いマサチューセッツ州の東海岸の小島マーサズ・ビニヤードへ駆けつけることをしなかった。かつてジャクリーン・ケネディがそうしたように、その長女はマスコミの騒ぎとは反対にあくまでもひっそりと悲しみと闘っているとみられている。

 ケネディ・ジュニア遭難の悲劇でのアメリカ社会にとっての救いは、英雄の芽が銃弾で摘み取られたのではなかったことだ。さらに、共に遭難した夫人との間には結婚して3年経った今もまだ子供がいなかったことは、多くの人をほっとさせる。

 人に惜しまれるヒーロー、それは栄光と共に悲劇を背負った時に誕生する。

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