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小さな個人美術館の旅(74) 猪熊弦一郎現代美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 猪熊弦一郎美術館は駅前美術館だ。 四国は香川県丸亀市。JR丸亀駅を出ると、さわやかに風の吹き抜ける駅前広場のはす向かいにモダンな建物がすっきりと立っていて、軽やかな壁画と彫刻ですぐそれと知れた。大きな建物、ゆったりとしたフアサードに対して、正面入口は可能な限りさりげなく、まるで茶室のにじり口のよう。「ここでいいのかしら」とちょっと戸惑って、キョロキョロとあたりを見回した。 けれども、それはそれでいいのだった。一歩中へ入ると、吹き抜けの階段を登ってゆく空間は限りなく広やかで、融通無碍で、少しも威張ったところや肩ひじ張ったところがない。それはそのまま猪熊弦一郎の絵のようなたたずまいに、私はいっぺんにこの美術館のとりこになってしまった。 丸亀市が市政九十周年を記念して猪熊弦一郎美術館の建設を計画したのは、1986年のことという。当時の市長が東京田園調布に猪熊を訪ねて意向を伝えると、丸亀中学(現丸亀高校)を卒業、東京美術学校(現東京芸大)に入るまでの幼少期をそこで過ごした画家は、故郷に美術館ができることを大いによろこび、直ちに作品を寄贈することを快諾。さらに、自分は死ぬまで丸亀のために作品を描きつづけるよと青年の如き情熱を燃やし、はじめは五、六百点といわれた寄贈作品は開館時には千点を越えたと、美術館でいただいた作品集の序文にあった。(藤田慎一郎「猪熊弦一郎の遺したものたち」)
「はじめてここへ来た時、水族館の魚になったような気がしたんです。どうしてもここで仕事をしたいと思って」 と、館内を案内してくれながら若い学芸員の安藤輝美さんが言う。私もその時、海底深くを遊泳している気分だったので(こんなに高いところにいるのに!)、ちょっとびっくりした。それは天井の遥かな高みから入ってくる自然光の仄明るさのせいだったろうか、それとも歩いてもまるで靴音のしないフローリングのせいだっただろうか。広々とした空間に掛けられた色鮮やかな抽象絵画の中を、私は胸をドキドキさせながら泳ぎ回った。ひとたび水面に顔を出せば、そこにはいつもの見慣れた風景があり、日常がある。けれどもここには、いっとき、ありきたりの現実世界を忘れさせ、新しい生気や勇気を吹き込んでくれる、喜びに満ちた何かがあるのだった。 「常識を捨てろ」は、猪熊弦一郎の口癖だったようだ。『私の履歴書』の冒頭でこんなふうに書いている。 「『絵には勇気がいる』というとみんな驚く。 でもこれはほんとうのことだ。 絵描きに限らず芸術家は、いつも、いままでになかったものがつくれないかと模索し続けている。それにはまず『常識』というものと闘わなければならない。常識は、人生を送る上では大切なもので、大概の人はそれをふまえて生きている。しかし、ほんの一握りしかいないが、真摯なアーチストにとって、常識は敵である。未知なる自分の世界をひらくためには、常識を超えなければならない。それには勇気がいる」。 猪熊弦一郎は1902年(明治35)12月生まれ。大正末、東京美術学校在学中に帝展に入選。特選、無監査へと進むが、1935年の帝展改組に際して小磯良平、脇田和らと反官展の在野団体、新制作派協会を創立。日本での活躍の後、三十六歳のときパリに留学して大好きなマチスの指導・助言を受けるが、彼の一言が猪熊の心にぐさりとつきささった。「おまえの絵はうますぎる」とマチスは言うのであった。そのときのことはこんなふうに書いている。 「のっぴきならない発言だった。つまり『自分の絵になっていない』ということなのだ。私は本当に恥ずかしくなってしまった。マチスにしても、ホアン・ミロにしても、ピカソにしろ、まるで子供に返ったような純なそして自分自身の世界を作っている。それはだれでも簡単に真似ができそうにみえるが、とてもむずかしいことだ」 人から学ぶことの無意味を悟った猪熊は日本に帰った。 第二の転機は、戦後に訪れる。1955年、再びフランスへ向かう途中ニューヨークに立ち寄った画家は、この街に「ガッチリとつかまってしまった」のである。「そのころの私の絵の傾向といえば、具象と抽象の間の非常に煮え切らない『混合体』だった。心の中にはいつも、純粋になりたいという願望はあったにもかかわらず、長い間具象の影がふっ切れなかった。私はもう一度ゼロからやり直す必要があったのだ」 世界中から傑出した画家が集まってしのぎを削る、乾いた空気が心地よかった。日本での地位や名誉をあっさり捨て、五十歳を過ぎてニューヨークに腰を据えた猪熊は、それから二十年間にわたって厳しい幾何学構成の抽象絵画に打ちこんでゆく――。 具象から抽象へ、そして身体をこわしてニューヨークを引き上げてからの晩年には、具象にも抽象にもとらわれない自由な世界へと到達した画家は、美術館完成の二年後の5月、九十歳の輝かしく明るい生を終えた。心をこめてつくりあげた卆寿記念の記念展(それは美術館の開館一周年記念展でもあったが)「心友イサム・ノグチとともに」を終えて、二た月たらずの突然の死だった。「イサムとともに」の図録に書かれた猪熊のことばは、イサム・ノグチの美術館を見てきたばかりの私には格別意味深く響くのだった。
自らの未知なる世界に挑み続けた二人の作品は、ここ香川県のほとんど隣りあうような地にあって、いまもそれを見る人の心に風穴をあけ、新しい風を吹き込んでくれる。それは、瀬戸内海を渡る風のように、涼しくさわやかな風だ。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |