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ゴン太の日記帳 (42) 目黒 ゴン太 今通っている大学の基本的な教育方針というか、学校としても理念体系の中には、キリスト教が、大きく関っている。また、以前に自分が留学していた時、入っていた高校も流派は、今の大学と異なれど、厳格なキリスト教崇拝を義務づけていた学校であった。また、どういうことか、自分の親戚や知り合いでも、キリスト教徒、いや、教徒ではないにしろ、神を崇拝し、信じるならば、キリストをという人が、比率で見てみると、かなり高い。学校にしても、親戚はもちろんのこと、知り合いにしても、自分は、全く意識的に選り好みをして、キリスト教に関連しているものとつき合おうとしている訳ではないので、単なる偶然と把えるしかないのであるが、どうしても、こういう状況下で育ってきた自分は、他の宗教よりも、キリスト教における知識の方が、多い。 しかし、宗教と名の付くだけで、毛嫌いして、有難い説法のようなものを聞く際も、全く耳を貸さなかった。厳格であり、チャペルに週に4〜 5回、早朝から出席することを義務付けていた高校においても、眠いといってサボったり、神などいないと言って否定したり、聖書に書いてあることは、うそが多いとか言い、神父様を困らせたり、居眠りをしてるフリをして、わざと怒られたりして、熱心に祈りを捧げる他の生徒を、横目に、「何を馬鹿みたいに、夢中になってるのかなぁ」等と本気で考えてしまう程、宗教、キリスト教に対して、疑いの目を向け続けてきた。そんな自分の反キリスト教的考え方にも、ほんの少し、変化が生じた。それは、先日、何気なく買って読んだ一冊の本にある。その本とは、遠藤周作著「イエスの生涯」新潮社文庫である。何気なく買ったとしたが、実は、そのタイトル名に、妙に引かれるものがあって、手に取ったのだ。イエスの生涯、つまり、キリスト=救世主の一生を、知り得ることことができるのだ。それは、今まで、何度も聞いてきた、誠に信じ難いフィクションの様な話を、真実として、受け止めろと言われ続けてきた話であり、普通なら、関心を持つことはないことであった。しかし、この本は、日本の有名な小説家である遠藤氏の作品であり、自分は、彼のキリスト教、又は、キリスト観や分析に、興味を覚えたのだ。同じ文化で生きた日本人から見るキリスト教解釈に…。 読み終えた現在の感想として、まず、自分は、キリスト教を否定することがなくなると思う。今までも、別に否定しょうと考えていた訳ではないのだが、キリストを信じる人々の存在を、どこかで疑っていたこよはあったのである。それは、キリストにまつわる数々の謎(復活の話、数々の奇蹟をおこしたとされるもの)を、聖書として崇めることに付いての疑惑の目であった。しかし、遠藤氏が、著作の中で述べているように、事実であるかどうかは問題ではなく、数々の奇蹟は、信じる者が、真実とするならば、それは真実足りえるのだ。しかも、それらのことはキリスト教の真理においては、取るに足らぬ小さなことに過ぎないのであった。 遠藤氏は、著作において、数々の書から、できるだけ宗教的側面を除き、彼の考え、推測を織り交ぜながら、できる限り、キリストの本来の、真実の生き様、彼の成した業を浮き彫りにすることに、終始努めている。これは、自分の様に、無知なことを武器に、キリストを否定することしか頭にない者に、紹介する上では、かなり、成功していると言えよう。何故なら、様々な理解し難い部分、他の宗教本にありがちな、余計な押しつけ、勝手に神格化し、後付けしらような逸話を取り除くことにより、キリスト教、キリストが、世に、民に、自らに求めた真理が、ストレートに伝わってくるからである。今まで何が有難いのかわからなかった、全てを許すことの意、人が求めるべき愛についてのイエスが投げかけた御言葉の真意が、今、ようやく自分の中に解け込んでゆくのである。そして、何故自分が理解不能であったか、それは、イエスの前に現れた無数の民や弟子が、イエスに 『微と奇蹟とをー現実に効力のあるものだけを願った』( P,86抜粋)のと同様に、自分も、キリスト教に対し、目に見える見返りのないことに憤慨していただけに他ならないことが、ようやくわかることができた。神を、キリストを信じる、信じないは別にし、自分が、どれだけ、精神的に貧しい世界に暮らしていたかがわかる。よいきっかけになった。人が、いつ、どこで、どのようにして、宗教的な物と触れ合うかは、全くわからないことだが、その機会に、全てをうのみして考えるのは、とても危険であるが、逆に全てを拒絶してしまうことも、時には、マイナスであることにも気づかされた。少なくとも、それらの説く道なり、神の真意を考え、理解してみようとするぐらいは、自分のためにも、良い経験になるのだと思う様になった。
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