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第7回フランス映画祭横浜’99 @
「ヒューマニティ」 大竹 洋子
1999年/フランス映画/カラー/150分 恒例になったフランス映画祭横浜が、6月10日から13日まで盛大に開催された。硬軟まじえて新作20本の上映作品の中から、心に残ったものをいくつか取り上げたい。 まず「ヒューマニティ」。今年のカンヌ映画祭で審査員大賞(カンヌグランプリ)を受け、加えて最優秀女優賞、男優賞も獲得した話題の作品である。一昨年のフランス映画祭で、「ジーザスの日々」という非常に印象深い映画があり、この欄でも紹介した。「ヒューマニティ」はその監督、ブリュノ・デュモンの 2作目にあたる。「ジーザスの日々」と同じ町、フランス北部の取り残されたような小さな町での、数日間の出来事が描かれる。主人公のファラオンは 30歳の刑事で、その朝死体で発見された少女の、レイプ殺人事件の犯人を追っている。しかしとても繊細な感受性の持主で、人の痛みもわがものにしてしまうファラオンにとって、このむごたらしい事件はあまりに衝撃的であり、人間がこのような恐ろしい行動に及ぶことなど、到底信じられない。ファラオンは母と二人で暮らしている。事情は明らかにされないが、妻と生後間もない子どもを失ってまだ日が浅いらしい。数軒向こうの家にはドミノが住んでいる。ファラオは彼女の存在が気になって仕方がないけれど、ドミノはファラオンの友人で、スクールバスの運転手を恋人にもっている。 上司と共に犯人探しの毎日だが、ファラオンは被害者の少女の両親に会えば、その悲しみに自分も耐えられなくなってしまうし、目撃者と思われる人間に事情聴取すれば、相手の感情をおもんばかって自分まで困惑してしまう。気晴らしにドミノたちと海岸へ遊びに行くと、今度は恋人たちに気をつかって楽しむこともできない。しかし、それからすぐに、思いがけない犯人が割り出された――。 「ヒューマニティ」についての賛否両論が、連日フランスの新聞紙上をにぎわせたと聞く。私には、これは西欧人でなければつくれない作品なのではないかという気がする。原罪意識から発生する主人公の思考法が、なかなか理解されにくいのではないだろうか。ファラオンは真犯人――それは彼の親友だったのだが――が捕らえられたあと、取調べ室の中でうなだれている。その手に手錠がかけられているのがちらっと見える。ここで犯人はファラオンだったのかと観客は思ってしまう。だが彼にとって、友人が犯した罪は自分のものであり、その罪の深さは自分にも向けられてしかるべきなのである。 なぜ“ヒューマニティ”なのか。他者にむかって開かれる心がヒューマニティなのだと、デュモン監督は説明した。もう一つ。ファラオンは事件発生の直後、自分の車のラジオを物凄い音で鳴らす。バッハの音楽がスクリーンを圧倒する。あるいはこの田舎町を通過する超特急列車の轟音。この桁はずれの大きな音は、静寂を引き立たせるためのものだとデュモン氏はのべた。他者との対照によって、あるものの存在を際立たせるこの方法は、西欧的だと私は思うのである。私には、“静の中の静”というやりかたのほうが納得できる。しかし、これほど作家の意思を感じさせる映画は、滅多に生まれないであろう。ドイツ哲学を学んだというデュモン氏の、非常に明確な思想と方向性をもった映画作りは貴重で、他に類をみない見応えのある作品、というほかはない。 「ジーザスの日々」は、未だ日本では公開されないままである。それよりももっときつい「ヒューマニティ」の公開もまた、絶望的と思われる。まして血まみれの少女の裸体のクローズアップや、ドミノと恋人の激しい性描写がそのまま上映されることは、わが国では不可能に違いない。素人を起用したファラオン役とドミノ役の二人は、見事な演技をみせ、受賞に充分該当するが、ドミノを演じたセヴリーヌ・カネルが、プロの女優たちの嫉妬を一身にかったという話には、さもありなんと思う。野菜の冷凍工場で働いていたというカネルは、これからも女優として立派にやってゆけるだろうし、素顔の彼女はとても素敵な女性だった。ファラオンのエマニュエル・ショッテは、愚鈍でお人好し、ちょっとまのぬけた主人公をよく演じているが、みる者がこの役にあまり感情移入できないのも、やはり監督の意図なのだろうか。 このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 |