1999年(平成11年)7月1日

No.78

銀座一丁目新聞

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“針の穴から世界をのぞく(24)”

 ユージン・リッジウッド

永遠なるもの、その名はスパイ

 [ニューヨーク発]NATO軍がベオグラードの中国大使館を“誤爆”したことから米中関係がきしんでいる。アメリカが国務省ナンバースリーを北京に派遣して誤爆にいたった事情を説明しても、中国側は納得しない。無理もない。アメリカが古いベオグラードの地図を元に空爆対象を決めていたために中国大使館と武器調達庁の建物を誤認したと言っても、素直に受け入れられるはずがない。なぜならアメリカの情報収集能力がそのように未熟なものであることなど、これまでのアメリカのスパイ能力を知るものからすれば考えられないことだからだ。

 一国の首都にある大使館の位置など間違いようのない公開情報である。ましてやレーザー誘導の精密爆撃を駆使する攻撃目標の選定で、CIAが7年前の首都の地図を使っていたなどとは考えられないことだ。旅行者ですら7年前の地図を片手に町を歩いたりはしない。あのCIAがと耳を疑うような話しだが、アメリカの安全を脅かした宿敵ソ連の消滅はCIAの士気に大いなる影響をもたらしていると言えそうだ。地上職員つまり現地を歩いて情報の収集、確認をするスパイ活動の再強化を求める声が上がり出した。

 アメリカの情報活動の問題点として、最近いくつかの失敗例が挙げられる。スーダンに化学兵器工場があるとして、アメリカが巡航ミサイルで破壊したが、それはCIAの誤報によったためだった。ケニアやタンザニアの米大使館爆破事件の事前察知が出来なかったことや、インドの核実験や北朝鮮のミサイル発射実験がCIAにとって寝耳に水だったことでも、CIAの威信は大きく揺らいだ。

 そして今、ニューメキシコ州ロスアラモスの国立研究所から最新核弾頭情報が中国に盗み取られていたことを表面化、同研究所を管轄するエネルギー省安全保障部やCIA、FBIの対スパイ活動の不備が大きな問題になっている。アメリカの核開発の総元締めであるエネルギー省の担当次官がついに機密情報漏洩の監督責任を取って辞任に追い込まれた。ロスアラモス研究所は世界最初の原子爆弾を開発したマンハッタン計画を遂行し、広島、長崎に投下された実戦用原爆製造でその名をはせた研究所である。

 冷戦終結でアメリカの情報活動が一息ついているのを見透かすように、中国は80年代後半から、アメリカの最新核開発情報を巧みに盗み出していたというのが今回の事件だ。中国の核弾頭実験を追跡研究していたロスアラモスのチームがその中国の最新兵器がアメリカの開発したW−88と呼ばれる弾頭に酷似していることを突き止めた。1995年春頃だった。一方同じころアメリカ政府情報当局者に中国政府の機密資料が何物かから宅急便で送られてきた。その中国語資料を分析した結果、それは中国の兵器関連文書で、その中にW-88を含むアメリカの核兵器開発資料が含まれていることが分かった。

 ロスアラモス研究所で密かに内部調査を進めるうちに一人の中国系アメリカ人研究者、ウエン・ホー・リン氏が疑いの渦の中に浮上してきた。リン氏はまもなくコンピューター情報を不正に操作したとして就業規則違反で研究所を解雇され、同時にFBIの監視下に置かれた。しかしリン氏が中国に最新核弾頭情報を売り渡したとする確たる証拠を得るに至らず、リン氏の逮捕には至っていない。これまでの操作では、リン氏を含む複数人物によって、W−88情報が1988年に漏洩されたのではないかとみられる旨、ニューヨーク・タイムズが関係者情報を元に報じている。

 政府によるスパイ活動を描いてその名をはせたイギリスのスパイ小説作家、ジョン・ル・カレをはじめ、多くのスパイ小説家らの血脇き肉踊る物語りも、冷戦終結によって時代遅れになるのではないかと真面目に危惧された。事実、政治スパイ小説から産業スパイ小説に流れが変わった。ところがどっこい、国家機密を盗み出すスパイの存在価値にはまだまだ大きいものがあることを今回のロスアラモス事件や中国大使館誤爆事件が証明した。となれば、スパイ小説家は再び想像をたくましくして、時代の先端をいくサスペンスに取り組めるというものだ。

 最近の一連の失態から、CIA強化策が叫ばれる。しかしコンピュータが普及した今、遠くにいながらにして情報収集が可能になった一方で、機密情報漏洩防止は極めて難しくなった。一瞬にして膨大な量の情報が流されてしまうだけに、それをどのようにコントロールするか。

 コンピュータ、インターネットによる情報の時代になって、誤操作でとんでもないところに情報を送ってしまう危険も常に付きまとう。社内や組織内でのLANを通じた電子メール通信で、あらぬ人にあらぬ情報を誤操作で送ったなどというのは現在ではもはや珍しくない。愛の告白のメールをアドレス帖で一つ上の人に送ってしまったり、社内の敵派閥に関する情報を誤ってその派閥の人にまで送ってしまったりという失敗は日常茶飯事である。指先でマウスをクリックするだけという便利さは、あっと思ったときにはもはや取り返しがつかない。ロスアラモス事件も研究者が自分のコンピュータに呼び出した情報を一瞬にして、流してしまった疑いが持たれている。

 国家の運命も個人の運命も、今やダモクレスの剣ならぬ人差し指の下に置かれている。

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