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小さな個人美術館の旅(72) イサム・ノグチ庭園美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 前日の夕方、岡山からマリン・ライナーで高松へ向かった。 うっすらと靄がたちこめて、瀬戸内の海は淡いピンクに染まっている。いくつもの島が墨絵のようなシルエットとなって浮かび、小さな波頭ひとつ見えない初夏の夕暮れだった。 「ありがとう」と、小さな声で私はだれにともなくお礼を言った。寄り道するところがあったとはいえ、飛行機で来なかったのは正解だった。空港に建つ壮大な彫刻は見損なったけれど、この静かな夕暮れは、イサム・ノグチという純乎たる個性への美しい前ぶれだった。 翌朝は高松駅近くから庵治(あじ)行きのバスに乗った。庵治とは、良質な花崗岩として有名な庵治石の産地として知られるところ。石屋が多くなったなと思う頃、「祈り岩」に着いた。バス停まで迎えて下さった美術館の池田文さんは、黒い帽子をかぶって黒づくめのシックないでたちだ。後で分かったことだが、この美術館で働く女性たちはみな思い思いの黒い服を着て、それがこの類い稀な空間をいっそう引き締めているのだった。 美術館の事務棟に着く頃から、私の胸は期待でしめつけられるようだった。「庭園美術館」全体から見れば、まだほんの導入部に過ぎないのだけれど、ここはその敷地に入るや、もう人をとらえて離さない。何か地霊とか精霊とかいうものに満ちた、そんな空間なのだった。 「生活蔵」と呼ばれる簡素で魅力に満ちた事務棟は、もとは香川県三木町の米蔵だったそうで、解体寸前のものを移築して彫刻家は生前最後のアトリエとしたのである。重い扉を開け放つと眩い光が差し込み、抽象彫刻群が一斉に色と艶を増して表情を変える展示棟は愛媛県の酒蔵、晩年のイサムがアメリカからやって来ては一年のうち半分をそこで暮らした「イサム家(や)」は丸亀の武家屋敷に手を入れたものというように、「美術館」は次々に新しい展開を見せてゆく。 大小百五十点ほどの彫刻作品は、「石壁サークル」と呼ばれる中庭や、その前に建つ展示棟にかつてイサムが置いたままに並べられているのだが、イサム家にも、またそこから登ってゆく変幻自在な庭園のそこここにもあって、建物を含んだ千五百坪の庭そのものがまた作品なのであった。こんな「美術館」を、これまで私は見たことがあったろうか。息をのんで立ち止まり、また歩き、眺め、私はいったいどれほどの時間をそこで過ごしただろう。 年譜で見ると、イサム・ノグチがここ香川県牟礼町にアトリエを設け、石――花崗岩や玄武岩の彫刻を始めたのは1969年のことだ。それより十三年も前の1956年に、パリのユネスコ本部の日本庭園の設計を依頼された際、日本の石でよいものはないかと友人の画家猪熊弦一郎に相談し、猪熊の推奨によって訪れたのがきっかけになったという。けれども「石の庭」という考え方は、それよりもっと遡った1931年、まだ二十代のイサムが十三年ぶりに日本を訪れた際、京都の庭に出会ったのが最初だったらしい。庭を巡りながら、ふと桂離宮や銀閣寺や大覚寺の庭を前に、膝をかかえて座っている若き日のイサムの姿が幻のように浮かんだ。イサム屋の大きく開いた窓から自ら築いた庭の竹藪やその後ろの石積みの壁や、縁側の線に沿って平行に置かれた長い黒い石の作品を眺めている晩年の姿と重なりあって。
イサム・ノグチは1904年、カリフオルニア州ロサンゼルスで生まれた。父は詩人の野口米次郎(ヨネ・ノグチ)、母はアメリカの作家レオニー・ギルモア。二歳の時、東京に移り、少年時代を日本で過ごすが、その後、たったひとりでアメリカに渡った。シアトルで船を下り、インディアナ州の片田舎を目指して広大なアメリカ大陸を横断していった少年はまだ十四歳だった。目的地は「ダニエル・ブルーンの哲学教育」を提唱する実験校だったが開校されず、公立学校に学んだ。この渡米には母の強いすすめがあり、父の反対を押し切ってのものだったが、その後、父母は別れ別れになってしまう。 ハイスクールを卒業した後、十八歳で彫刻を志すも、一年でアーティスト志望を一時断念。医学を学ぶためにニューヨークのコロンビア大学医学部に通った。その頃、野口英世博士に会い、芸術家になることをすすめられたイサムはレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスに通い、再び彫刻の勉強を始めた。ブランクーシ展を見て深い感銘を受け、パリに出て彼の助手をしながら学ぶのはイサム二十三歳の時、ニューヨークに戻り、木・石・板・金を素材とした抽象作品で最初の個展を開くのは二十五歳の時だった。間もなく世界を股にかけての活躍が始まるのだが、このとびきりの才能に恵まれた青年のその後の目覚ましい活躍ぶりは、とてもここには書ききれない。 イサム・ノグチについては多くの人が多くのことを伝えている。そのどれもがこの不生出の彫刻家に対する心からの賛嘆の念に満ちているのだが、いまひとつだけその断片を引用するなら、次の言葉になるだろうか。 「……ノグチの生涯を振り返ってみれば、大なり小なり、ノグチの生まれの二重性に気づくはずである。ノグチはあらゆる興味の対象を彫刻という器に盛った。その理由は、彼がまぎれもなく彫刻家だったからだ。しかも詩人でもあった。ノグチの想像力を駆り立てていたのは、その詩人の魂である。……彼が創造の世界を遍歴の旅人として生きることができたのは、こうした生まれの二重性と詩人の魂に機縁をもとめたからである。」(酒井忠康「イサム・ノグチと日本」) 「日本人でもなく、アメリカ人でもない」と感じていた自らのアイデンティティイを求めて、「洋の東西の狭間で」仕事をしたイサム・ノグチは、酒井氏が言うように「芸術以外の安住の地をもつことがついになかった彫刻家」だけれど、ここ牟礼だけは違う。屋島、壇の浦、五剣山、瀬戸内海の島々を遥かに一望する庭の高みに立って、私はつくづくそう思った。ノグチの晩年の代表作はこの人の技術なしには考えられないと言われるほど全面的な信頼のもとに制作に尽力した和泉正敏さんという人を得て、孤独な彫刻家は日本での安住の地をとうとう見つけたのだ、と。 そこにはイサムの指示によって和泉さんが割れ目を入れた巨きな自然石がひとつ置かれていた。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるんですよ。その声が聞こえはじめたたら、ちょっとだけ手助けをしてあげるんです」とは、建築家の磯崎新氏が聞いたイサムの言葉だ。1988年、心不全のためニューヨークで死去。享年八十四歳。 「アトリエを美術館にしたい」という生前の言葉を守って、和泉さんをはじめ準備委員会の人々が作品の所有権をもつニューヨークのイサム・ノグチ財団と粘り強い十年の交渉を経て、ここに美術館をオープンさせたのは、まだほんの一と月ほど前のことである。折しも渡米中のこととて和泉さんにはお会いすることはなかったが、和泉夫人とは長いおしゃべりができた。「掃除ばかりしているんですよ」と裏方に徹している夫人は、飾らないやさしい言葉で、時にはわがままなほどに妥協のないイサムの仕事ぶりや、和泉さん一家とくつろいだ日々を伝えてくれるのだった――。 八十回を越える「美術館紀行」の連載の終わりに近く、ここを訪ねることのできた幸せをかみしめつつ、私は次の取材地へ向けて再び瀬戸内海を渡った。「ありがとう」と心のなかで何度もくりかえしながら。
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