先の号の「安全地帯」で湘南次郎さんの「扇湖山荘」を読んで「わかもと」にからむ昔のほろ苦い出来事を思いだした。戦前、戦中、滋養・栄養・強壮・胃腸の健康薬品として有名だった「わかもと」の開発、製造、発売元 は長尾欽弥、長尾よね夫妻であったとある。戦前「わかもと」をよく愛用したが長尾夫妻が関わったとは全く知らなかった。
昭和20年6月、陸軍士官学校59期の歩兵科の士官候補生は長期演習という目的で長野県佐久郡望月町を中心として付近の国民学校などに分散宿泊した。私たち12中隊の4ヶ区隊は協和村金山にある国民学校を仮の兵舎とした。長期演習に当たり本科13中隊の1、2区隊と14中隊の1、2区隊の歩兵科が一緒になり編成された。縁は異なものでこの中にいた奈良泰夫君(平成23年3月死去)は戦後、ともに毎日新聞に入り、定年後も印刷と新聞の違いがあっても同じビルで働き切磋琢磨した。
問題の「わかもと」をめぐる騒動は6月の終わりから7月の初めごろに起きた。近くを流れている千曲川の橋のたもとに一軒の薬屋があった。誰が始めたか知らないが同期生の一人が「わかもと」(当時ひとびん83銭)を買って食べたところ空腹が満たされたというのだ。それを聞きつけて同期生たちが「わかもと」を買いに行くようになる。2区隊の永井五郎君(平成6年7月死去)の話では橋を渡りきるまでに買ってきた「わかもと」ふたびんを全部食べてしまったものまでいたという。当時,給養は悪く、食事は高粱飯でおかずも少なくみんな腹をすかしていた。「わかもと」を買いに行くのは無断で外に出ることになる。「放馬」「脱柵」といった。明らかに規則違反であった。私も腹をすかしていたが、「放馬」する度胸がなかった。ある夜、風呂の帰り「わかもと」を買った一人の同期生が橋の上で待ち構えていた1区隊長で中隊長代理をしていた森松俊夫大尉(陸士53期・戦後自衛隊に入り戦術教官・陸将補・著書多数)に捕まった。その夜の点呼の際、重松区隊長は「外出禁止区域に出て許可なく民間の薬を買って飲む不届き者がいる。一度でもそんなことをしたことのあるものは前に出よ」と語気鋭く言い放った。永井君、北原康行君、工藤黄海生君、岩村昇君ら4名が素直に前に出た。4名とも重営倉を覚悟した。みんな第2区隊のものであった。それから数日後、森松区隊長は中隊全員を集めた。初めに名乗り出た同期生4名の名前を読み上げたあと、23名の名前を次々に読み上げ列の前へ出るよう指示した。第T、第3、第4区隊の者たちもいた。処分は「今回は厳重なる訓戒にとどめておく」であった。最後に4名の態度について一言のべた。「4名は終始正々堂々、率直にその非を認め、深く反省自戒し憚るところがなかった。男の中の男としての士官候補生の名にふさわしいものであった」(永井五郎著「青春の賦」秋元書房より)。
毎日新聞の出版局長時代、埼玉県の労働部長をしていた永井君が陸士の予科、本科時代の日記を全部持っていると聞いたので「うちから出版させてくれ」と頼んだ。その時、彼から「労働部長が軍国少年であったとわかったら仕事がうまくゆかなくなるからしばらく待ってくれ」と言われ、そのままになってしまった。その後、別の出版社から日記を中心として「青春の賦」(平成4年6月)が出された。これは名著である。私は当時の事を調べるのに重宝している。
(柳 路夫)
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