安全地帯(454)
−信濃 太郎−
想夫恋歌えば悲し春の宵 悠々
「異郷なる夫思う夜のにら雑炊」(昭和54年)に始まり、「密林の極暑はりつく道に佇つ」(同年)「電送の声やわらき目借りどき」(昭和56年)と続き「花こぶしサファイヤ婚の夜を更かす」(平成5年)「次の間の夫へ声やる夜長かな」同年)と詠み、夫病に伏す。「うたた寝の夫に侍りぬ秋の風」(平成7年)「夜寒星治癒信ずる夫信じ」(平成8年)「看とりて手を握るのみ初茜」(平成9年)と信じつつ「夫の名をいくそたび呼ぶ四日かな」(平成9年1月4日)悲しい日を迎える。
横山節子さんの句集(昨年11月1日発行・俳人協会)に詠む夫横山信夫を思う気持ちに胸が痛む。昭和62年、熱を出して寝こんだ夫に「湯豆腐や病得し夫我のもの」の句を捧げる妻に脱帽、思わず「想夫恋歌えば悲し春の宵」(悠々)の句が口をつく。
平成4年の作品に「出勤の夫にまゐらす七日粥」がある。その注釈に「年中行事とか誕生日のお祝いとが好きな夫だった。旧制中学(富士中学)4年生で陸軍士官学校に入校、以来普通の家庭生活に恵まれなかったせいかと今思う」とある。新聞記者の道に進んだ私などは「寝食を忘れ家庭を顧みず働く」のが当たり前と思い、会社に尽くした、お蔭で反面教師として息子は固い仕事に就いた。
節子さんの夫横山君と陸軍予科士官学校で同じ中隊、本科でも兵科も歩兵で同中隊同区隊であった霜田昭治君から「句集」をいただいた。霜田君のメモによれば、横山君は戦後しばらく神田神保町の霜田君の自宅から日大工学部に通い、飛島建設に就職、住まいが茅ヶ崎なので親しく付き合っていたという。節子さんの家は箱根駅伝の通過地域に近いので年賀状にはいつも駅伝を詠んでいるとあった。今年の句は「箱根駅伝つやめく肩を剥ぎだしに」。
節子さんの俳句の師匠は上田五千石。五千石が昭和48年に創刊した「畦」に入会したのは昭和56年である。「句作りを少し重荷に豆の花」(昭和63年)で「少し俳句が分ってきはじめたのかもしれない」と注釈する。同じ年「先生あの灯は漁火でしょうか島灯でしょうか」の問いに「そのまま句にしたらいいですよ」と師はいう。自然とできたのが「漁火と島灯見分かぬ湯ざめかな」。思いがそのまま句になる。師・五千石が「眼前直覚」の率直な実践者と評した通りである。まことにうらやましい。私などいつまでたっても新聞の5・7・5の見出しのままである。生煮えである。なんとしても精進したい。
「朝靄におんころころと遍路かな」(平成10年)「空海誕生の寺でとどめない涙を流した」と記す。「公魚(ワカサギ)や寄せ音なき湖(うみ)の岸」と詠んだのは平成8年、「手術後小康を得た夫との河口湖でのモーターボートはデートのようであった」という。その時からわずか2年しかたっていない。良き思い出は走馬灯の如く浮かぶ。人の世はまことに無情。横山君は「血も涙もある武人であった」とあらためて節子さんに伝えておこう。句集に納められた句は300句。私が共感したのは
「今日の月絹の雲さへなく淋し」(平成25年)の句である。引き込まれてしまった。「平成俳句百人一首」が編纂されれば入選するであろう。横山節子さんに横山君とともに振武台,相武台で一緒に過ごした同期生の一人として挨拶の句を贈る。
「春の海船帰りきて休まなむ」悠々
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