2014年(平成26年)11月1日号

No.625

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追悼録(541)

残留孤児の父・山本慈昭さん

 新聞、テレビがいくら伝えても知らないことが多い。山本 慈昭さんもその一人である。中国日本人残留孤児の肉親捜しに身を捧げ200人以上の孤児たちを肉親たちに再会させ、「中国残留孤児の父」と呼ばれた。私も少年期をハルピン、大連で過ごし、二人の兄の家族は戦後着のもの着のまま中国から引き揚げてきた。中国残留孤児には人一倍関心がある。しかも山本さんの出身地である長野県下伊那郡阿智村は私の郷里喬木村のすぐそばである。まことに迂闊であった。

 このほど知人から送られてきて新聞で山本慈昭さんの生涯が映画化されるというので初めて山本さんの存在を知った。映画は山田火砂子監督の「望郷の鐘―満蒙開拓団の落日」である。

 新聞によれば、山本さんは明治33年2月、阿智村の生まれ、地元長岳寺の住職であった。昭和20年5月1日「阿智郷開拓団」(175名)の先生として奥さんと二人の子供をつれて満州の開拓地・北哈はま(口偏に馬)に向かう。ソ連国境からわずか80キロの地点であった。敗戦3ヶ月前である。日本海にはすでに米海軍の潜水艦が出没していた。徳川無声の『無声戦争日記』の昭和20年5月1日(火曜日・曇り)の日記には「昨日、空襲が終わるとすぐ出かけた。(新聞)ムッソリー銃殺さる」とある。終戦後ソ連に抑留されシベリアの収容所に送られる。1947年に帰国、阿智郷開拓団は大半が命を落とし妻と娘は死んだと教えられた(無事に帰国した者47人)。戦後、奇跡的に自力で帰国した山本さんの教え子が「あれは死出の旅に出かけた様なものです」と語る。だが、元開拓団員から現地に残された子供たちがいると聞いて山本さんの日本孤児探しが始まる。自宅を担保にして借金し、老齢年金もつぎ込んで国会に陳情するなど運動を続けた。訪中すること6回に及ぶ。この間、4歳で別かれた長女の消息をつかみ、対面を果たして日本に家族とともに日本に永住させた。

 「孤児探しは最後の一人まで」と言っていた山本慈昭さんは平成2年2月15日、享年87歳で死去する。長岳寺の鐘には「大陸に命を懸けた同胞に この鐘を送る 疾く瞑せよ」と刻まれているという。

 なお映画は有料試写会として11月14日(金曜日)午後7時から「なかのZERO大ホール」で上映される。また11月21日(金曜日)は「なかのZERO小ホール」で上映される。

(柳 路夫)