2014年(平成26年)11月1日号

No.625

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

花ある風景(540)

 

並木 徹

 

オルセー美術館展に感あり 

 国立新美術館で開かれている「オルセー美術館展」を最終日に見る(10月20日)。老年の人たちの姿が目立つ。もっとも私を誘った友人の荒木盛雄君も同行の川井孝輔君もともに89歳である。ともあれ、絵は心をわくわくさせ、なにがしのものをあたえてくれる。展示作品は84点。

 初めに目につくのがエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」(1866年作・油彩・カンヴァス160.5×97p)。カタログにも入場券にも使われた絵である。笛は「ファイフ」。音声ガイドにその音が再現されていた。世界一有名な少年とある。確かにかわいい。心に残る。だがその当時、新しい傾向を好まない「サロン」(官展)で落選した絵である。この絵は3年前、裸婦を描いた「草上の食事」や「オランピア」とともに嘲笑の対象となった。「奥行きを感じさせない絵具の塗り方」などと非難された。

 「清秋やファイフを吹ける少年の眼」(紫微)

 マネの「ピアノを弾くマネ夫人」(1868年作油彩・カンヴァス38.5×46・5)に目がゆく。夫人の名はシュザンヌ・レンホフという。マネより二つ年上。ピアノ才能を認められてオランダからパリへ勉強に来ていた。父親はオルガン教師であった。夫人はマネとその弟のピアノの家庭教師であった。二人が正式に結婚したのは1863年10月である。マネ夫人は聡明な女性で夫の女性関係におおらかでマネにとってかけがいのない女性であった。

 ウィリアム・プグローの「ダンテとウェルギリウス」(1850年作・油彩・カンヴァス・280.5×225・3)に足が止まる。見ていると恐ろしくなる。地獄絵図である。赤い衣裳のダンテ、月桂冠を頭にしたウェルギリウス。地獄に落ちた二人の囚人を見下している。ダンテの「神曲」からとったものであろう。

 「秋深し大臣(おとど)落ちたり地獄絵図」悠々

 ジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」(1857−59年作・油彩・カンヴス56.5×66)。府中市美術館で開催中の「ミレー展」(11月3日まで)で拝見できなかった絵である。

 「鍬立てて祈る夫婦の秋の暮れ」悠々

 ミレーが農民を主題に絵を手掛けるのは1847年ごろからである。2年後に農村バルビゾン村に定住する。1959年「サロン展」に出品した「牛に草を食ませる女」(油彩・プル王立修道院付属美術館)が入選、顧客も増え、絵も値が出る。このころミレーは2男5女の子供に恵まれ農村で野良仕事や羊飼いの人々を描く。晩鐘も一面に広がる田と畑に仕事を終えた夫婦が向かい合い共に頭をたれて手を合わせる。その祈る姿は真に敬虔。そのそばに鍬が立てかけれ,籠、手押し車が描かれる。今日一日の農作業に感謝を捧げる夫婦。「田園の牧歌」そのものである。

 「敬虔な農夫の祈り大夕焼」(紫微)

 エドガー・ドガの「競馬場、一台の馬車とアマチュア騎手たち」(1876−87作・油彩・カンヴス・65.2×81.2)。奥に蒸気機関車が蒸気を出している。後部しかみえない馬車の向こうに4人の騎手が描かれている。19世紀の半ばごろのパリは近代化が進み、鉄骨の建物が立てられ、鉄道が整備されガス灯が置かれた。劇場やカフェ、デパートが開業しピィクニックや競馬が流行したという。

 最後がエドゥアール・マネの「ロシュフォールの逃亡」(1881年ごろの作・油彩・カンヴス・79×72)。ジャーナリスト・アンリ・ロシュフォールがナポレオン3世の体制に抗議したためにニューカレドニアに追放になる。広い海を手漕ぎでこぐ船に4人ほどの人が描かれている。権力と戦う孤独感が漂う。

 「逃亡の海面に照る月明り」(紫微)

 ルイ・ナポレオン3世が即位したのは1852年11月22日。新聞を検閲し、政治・経済記事を許可制にする。政府を批判する新聞を弾圧した。わき道にそれるが1966年ごろ、この検閲の間隙をぬってエミール・ド・ジラルダンが夕刊紙「リベルテ」に「スポーツ世界」という欄を設けて世界は初めてスポーツニュース(競馬)を新聞で取り上げて部数を伸ばしたといわれる。絵は時代を映し、時代は絵に跳ねかえる。マネはこの絵を描いた2年後の1883年(明治16年)4月30日死ぬ。51歳であった。

 他の作品で荒木君(俳号紫微)の詠んだ俳句。
 
 「夕凪に生(あ)れしヴィーナスただよへり」 ヴィーナスの誕生(カバネル)
 「白皚々の橋にかささぎただ一羽」     かささぎ(モネ)
 「木洩れ日の草上に宴ピクニック」     草上の昼食(モネ)