2014年(平成26年)11月1日号

No.625

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安全地帯(445)

川井 孝輔


礼文・利尻島巡り


 友人の川井孝輔君が礼文・利尻島めぐりの紀行文を寄せてくれた(旅は9月5日から8日まで)。現役時代6年間、北海道に勤務していたが礼文・利尻島を訪れたことがなかったという。長文だが紹介する。



 「新千歳空港から乗り換えて稚内空港へ。久しぶりのプロペラ機である。すぐ下に雲の見える雲上飛行は真に素晴らしいものがあった。雲の切れ目からは濃いブルーの海や緑の畑地が見え隠れする。空港について先ず港へ行く。かって樺太の大泊とを結ぶ連絡船の発着場であった。残念ながら今は記念碑的な場所にしか過ぎない。427mというトンネル状の波除けは専ら車両保護のためであったが今は線路もなく閑散として陽を浴びているばかり。傍らに謂れを記した案内板と、その時の鉄道車輪だけが、ポツネンと置かれてあるのが何かわびしい感じを起こさせた。

 稚内といえば「氷雪の門」に行くべきであろう。丁度産経新聞に『アキとカズ』の小説が連載され、終戦時の樺太の様子が描かれていたがあの交換手9人の最後を改めて思い起こすと瞑目するばかりである」

 川井君は最後の言葉の碑に詣でた。碑には「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれてある。終戦の年8月20日、押し寄せてきたソ連兵を前に樺太真岡郵便局で9人の電話交換手が職務を遂行して青酸カリを飲んで自決した。自決者は当日勤務であった班長高石ミキ(25)、副班長可香谷シゲ、交換手伊藤千枝(23)、吉田八重子(22)、渡辺照(20)、高城淑(20)、松橋みどり(18)澤田キミ(18)の8人と非番であったがソ連軍の砲撃を聞いて局に駆け付けた志賀晴代(23)であった。「さよなら」と隣の泊居の局に伝えたのは伊藤千枝で真岡の惨状を伝えた後「ソ連の兵隊が続々と、こちらに上がってきています。もう、みんな、交換台で倒れています。私も、だんだん目が見えなくなってきました。永い間、お世話になりました。さようなら」と言って通話を切ったという(『女交換手真岡に散る』桜井千代子記・文芸春秋編『完本太平洋戦争』下)。

 「行幸記念碑、南極で活躍した樺太犬の訓練地が、この地にあったことを記念する碑などが建立されてある。測量の碑を見るとこの場所が標高101.6m北緯45度25分15秒であることが分かる。展望も良く、園内をゆっくり観光することが出来て良かった。北端のノシャップ岬まで足を延ばす。おおきなイルカのモニュメントがあったが最果てはさすがに静かな雰囲気であった」

(礼文島にわたる)
 「稚内の西方60qにあって、アイヌ語では『沖の島』というらしい。島は南北に長く、北端は蟹の鋏のようになって、東は金田の岬、西はスコトン岬で船舶湾を囲んでいる。島の人口は2760名とか。最高標高490mの山並みが西海岸に偏って南北に走るので東側だけが生活圏のようだ。昭和23年5月、ここで金環食を観測したという記念碑を車窓から見ながら観光開始。最初に降りたのが「ウニむき体験センター」だった。ここで初めて生きたウニを自分で割ってためたのだが、特別の感激がない。やはり口に慣れた、多少味付け去れている夕食時の『ウニ』の方が美味しい感じだ。酔うほどに奮発して特注をし満足したのだった。

 島は海抜〇mから高山植物が育成し、200種類もの花が四季の咲き乱れることから『花の浮き島』と呼ばれる由。それらを探し見ながらのトレッキングがここでの観光のハイライトで、愛好家にとっては的とないご馳走だったに違いない。レブンアツモリソウ・なでしこ・えぞごまな・ノコギリソウ等々、可憐な花の紹介があった。カタカナ文字の名前はすぐ忘れてしまうのだが、ミニトマト状の実を付けたハマナスが珍しく、印象に残っている。澄海岬から見る海岸の景観は、甲天気に恵まれて見ごたえがあった。

 最北端と言われる『スコトン岬』に立つと、トド(海鱸)島が目の前にある。昔は番屋があったらしいが、今は無人の島になっている。冬季には数十頭のトドが群れをなして上陸するという。トドハアシカ科の中で大きな種類を指すのであえてトドに海鱸の文字を当てたらしい。説明がないと疑問に思えたものだ。いかにも最果ての地に来た印象が強く、ここでの記念写真を撮ってもらった。ちなみに緯度上では宗谷の岬の方が最北端になるのだが。

 利尻島には香深港からフェリーで40分足らずで着く。この鴛泊港には乗降用ノエスカレターがついたしゃれた建屋があって、礼文島より活気があるように見えた。利尻とはアイヌ語で『高い山』を意味するらしいが中央の利尻富士(1721m)がシンボルである。だがそのシンボルは年間を通じて半分以上もその姿を見せないとの事。来る途中のフェリーから瞬時頂上を見せた、全形を捉えていたのは幸いであった。ほぼ円形の島は周囲の海岸部が生活圏で、面積、人口ともに礼文島の2倍ほどある。一周する道路が開けているのが強みのようだ。早速バスに乗り込む。

 出発してすぐのところ、野塚展望所で利尻湾を振り返ってみた。鴛泊港の北側にあるペシ岬が遠望でき、眺望は満点である。ペシとは大きな崖を意味するらしい。礼文、利尻両島でサロベツ国立公園を構成しているが展望所から見る景色は何処も素晴らしい。漁業組合直営店での昼食にでたウニ丼は豪華であった.さすがにおいしい。オタトマリ沼は周囲1qの小さいものだが回りは赤エゾ松の原生林に囲まれ、利尻富士を見るには絶好の地の由。水面が穏やかなときには逆さ富士が見られることで名を揚げている。だが肝心の山が全貌を現すことが少ないので我々は案内写真でしか確かめようがない。「白い恋人」のパーケージに使われた利尻山の頂上部はアルプスに似て優雅だが、写真は海岸寄りにある沼浦展望所からとったものだそうだ。沼浦展望所で見た案内板には雲をいただく利尻富士の全容があった。それにしても今回の旅では、島を一巡する間に、山の姿を見ることが出来ずに、残念であった。

 仙法志御崎公園は島の南端にある。眺望の開けた公園で、案内板にある山の全容が望見できるはずだが残念。海辺に下りてゆくとアザラシが飼われていて、観光客の餌を、首を長くして待ち続ける姿が面白い。海岸を走るので色々変わった岩にぶつかるのだが、『寝熊の岩』‐『人面岩』等々、海岸線の景色は捨て難いものがある。西端の沓形岬公園で降りたが島の公園はどこも岬と併存している。沓形ハクツカンタとも読み、アイヌ語で岩の多いところを意味するとか。確かにそのようで、岬の岩場に立つと礼文島が近くに見える。話変わって当地出身の時雨音羽が、あの『とんと どんとどんと 波乗り越えた・・・』を作曲した由で、立派な石碑が立っていた。中山晋平作曲・藤原義江の唄で一世を風靡したものだが、我々も随分と口ずさんだものだ(注・音羽時雨・明治32年生まれ・詩人・本名池野音吉「出船の港」「鉾をおさめて」「君恋し」などの作品あり、昭和55年死去)。

 こちらの灯台は雪と見紛うことを避けるため、赤白の縞模様になっているがここの沓形の灯台は四角の塔になっているのが珍しい。夕暮れ近く、島一周のコース観光を終えて上陸した鴛泊港の宿に戻った。

 翌日は早起きしてペシ岬の登攀に挑戦した。わずか92mの小高い丘の岬だが大きな崖というだけあって、コースの終盤は岩むきだしの急坂路で柵に掴まっての登攀になった。喘ぎ喘ぎでどうやら92mを征服したが頂上からの展望は達成感もあって、素晴らしいものであった。戊辰戦争(1868)の遥か前の1808年、エゾ地防衛の命を受けた会津の部隊がこの地に来たという。藩士の墓三基が侘しくたっていた。利尻富士町の文化財になっているのが攻めての慰めであろう。手を合わせて下山する。ゆっくり朝湯に浸かり朝食にはビールで疲れを癒し、ホテルを出発した.姫沼は利尻岳の真北、標高125mの所にある。小さな沼をせき止め、ヒメマスを放流したことからこの名前があるとか。海岸通りからかなりの高さにあるため、訪ねる人が少ない由。ここは利尻富士への,北側からの登山道につながるようだ。沼の周囲は1q足らずなので手ごろな散策路になっている。
気候の良い今の時期は、自然を楽しむのに素晴らしい両島だが厳しい冬季はさぞ大変だろうと想像できる。あまり地元の人を見ないのでやはり過疎化と地域差を感じざるを得ない」