映画監督木下恵介さんが死去してから15年(平成10年12月30日・享年86歳)たつ。生まれたのは大正元年(1912年)12月5日というから今年が生誕100年である。木下監督は「二十四の瞳」(昭和29年・松竹大船)、「喜びも悲しみも幾年月」(昭和32年・松竹大船)、「楢山節考」(昭和33年・松竹)など数々の名作を残す。生涯制作した映画は49作品に及ぶ。木下監督の若き日を描いた原恵一監督の映画「はじまりのみち」を見る(6月25日・府中)。
この映画の中で木下監督が製作した「陸軍」(昭和19年・松竹大船・田中絹代・笠智衆)が軍部から忌避されたエピソードが出てくる。木下監督が描くところの母親は執拗に出征する息子の隊伍を追う。母親の別離の情がいやというほどににじみ出ている。このシーンが軍部から「軟弱だ」と非難され次の作品の監督から外されてしまう。昭和19年といえば、2月クェゼリン・ルオット両島守備隊玉砕、6月サイパン島守備隊玉砕、7月インパール作戦中止、9月グアム・テニアン両島玉砕、満18歳以上の男子兵役に編入など日本の敗色濃厚であった。政府も軍も沈滞しがちな国民の士気を高めるのに必死であった。木下監督も昭和15年応召、中国戦線に赴き戦傷で翌年、帰還する軍隊経験を持つ。この描写は当時の常識を破るものであった。ここに木下監督の自分の信念を貫き通す性格が秘められている。時に年齢32歳であった。
木下監督は辞表を出して郷里浜松に帰る。この映画の本筋は脳溢血で倒れた母親を空襲の激しい浜松から60キロも離れた山里に17時間もかけて疎開させる話。それも母親の病気を慮ってバスを使わずにトロッコがあるところまでリヤカーで山越えする”涙の物語”である。父親や荷物を運ぶ便利屋までが「無理な話だ」というのを見事、兄とともにやり遂げる。その途中、宿屋についた時。監督が何気なく泥にまみれた母親の顔を水に浸した手拭いで拭くシーンには思わず涙が出た。トロッコを待つしばしの間、河原で若き便利屋と雑談の最中、今まで小ばかにしていた便利屋が思いがけない事を口にする。「映画・陸軍の最後のシーン、母親が子供を追うところは涙が出て止まらなかった」。さらに口のきけない母親までが紙に書いて監督復帰を願う。木下家にとって監督は誇りであった。
復帰した木下監督の終戦直後の作品は二つある。「大曽根家の朝」(昭和21年・松竹大船)と「我が恋せし乙女」(昭和21年・松竹大船)である。前者の映画で昭和18年から敗戦直後までの大曽根家の出来事を扱う。婚約者の出征、長男の思想犯として逮捕、二男の戦死、三男の海軍予備学生志願、終戦を知った叔父の軍需物資の隠匿などさまざまなことが起きる。敗戦となり、母親を中心とした小さな平和のありがたさを描く。後者については「二人の男性に恋される女の悲しさと喜びを甘美に画面にただよわせ、木下恵介の職人的芸術家としての映画作りのうまさがよく出ている」と評された。
(柳 路夫)
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