2013年(平成25年)7月1日号

No.578

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安全地帯(398)

相模 太郎


史跡めぐり余聞


 筆者は定年後の一時期、鎌倉在住を利用し鎌倉幕府の公的史料「吾妻鏡」を多少学び、(もっとも齢と共に返納してしまったが)、当時は、その関連の地を日本全国、単独で愛車、鉄道、バス、徒歩で史書、案内書を携え、安いビジネスホテルに泊りながら生来の凝り性、熱をあげて探訪、周遊した。古くなってしまったが写真も数千枚もあり20年もたつが貴重な資料だ。なかで肩の張らない面白いものを少々ご紹介する。

 まず、有名で観光バスも立ち寄る伊豆下田街道沿道にある伊豆市湯ヶ島「妙徳寺」(曹洞宗の古刹)。このお寺は今様には別名「トイレの神様」という。仏語で便所を東司(とうす)と言い、その守護神をお祀りしている霊験あらかたな有り難いお寺だ。石段を上がり山門をくぐると、1m余りの陽石(写真)に度肝をぬかれ、お札売り場も人だかりの大した参拝者?(見学者)。参拝後右手の「おまたぎ、おさすり」の額のかかった建物へ。中はところ狭しと陰陽物が並ぶが、圧巻は3mもある木彫りのツヤツヤした陽物に、いいおばちゃん連中がキャッキャ言いながら先を争っておまたぎ、記念撮影(写真)をしている。なんとほほえましいことか。連れて行った英語の高校教員の後輩はクラシックパンツと称するものを五つも買って来た。実はこれ、お寺のしるしの入った越中ふんどしなのだ。かれはいつも愛用して別の息子を守っている。

 次ぎに三島方向に数キロ北上、バイパスが出来る前は、行楽時、有名な交通渋滞の難所だった修善寺町横瀬交差点の200mぐらい手前にある「横瀬八幡神社」。まず、本殿に参拝、変わった狛犬を見て、本殿右に末社が数社あり、一番右の社殿は赤い幕がかけてある(写真)。そっと幕を引くと思わず手を合わせたくなる高さ50pほどの赤いご立派な女陰石(写真)、おまけに核(さね)石までも着いてお堂の中に鎮座されている。将軍頼朝の妻、北条政子が下(しも)のやまいで医者を呼んだところ、直接は失礼なので医者がこの石に棒で部位を訪ねたとの伝えがあり、ご丁寧に木の枝まで供えてある。ありがたや、ありがたや。とにかく一見、いやー拝の価値あり。感激の余り、お帰りには幕を引くのをお忘れなく。

 話は飛んで南国土佐へ。頼朝の同母(父、義朝は地位拡大のため、多数の女性の子を各地につくった)の弟で介良(けら)の庄に配流されていた希義(まれよし)は、遠く伊豆で兄頼朝が決起したとの報を受け、挙兵したもののすぐ平家方に討たれてしまう悲劇があった。現在高知市介良の源希義の墓所を訪ねたときの事、数100m手前ののどかな田園を前に介良富士山を背に「朝峯神社」というやしろがあって、その拝殿の前に生垣で囲った中に高さ1mほどの立派な陰、陽石(写真)を発見した。説明はなし。

 国生みの神話、七夕さま、2月の奈良県飛鳥(あすか)の飛鳥坐(あすかにいます)神社の男女交合の「おんだ祭り」、大陽物の神輿が渡御する愛知県小牧市の田県(たがた)神社の豊年祭、通称「へのこ祭り」。頼朝が非人の女性を孕ませたという故事の鎌倉権五郎の御霊神社の「面かけ行列」(当地の中高生も烏帽子をかぶって行列する)。信州には「めおと」の道祖神が多い。中にはお互いに手を添えている仲のいい微笑ましいのもある。みな、その土地のおおらかな自然発生した民間信仰で平和、夫婦円満、家内安全を願うものだろう。わいせつ、卑わいと言うなかれ。だれでもがお世話になった「ふるさと」のこと、下司の勘繰り、ギスギスしないで、朗らかに、拝んだ方が人生楽しくなっていいのではないだろうか。  (写真は筆者撮影、年月は多少相違があります)

おまたぎ、右の石はおさすり
(妙徳寺)

 

女陰石を祀る(横瀬八幡)

陰陽石(朝峯神社)

喜心石、後方は札所
(妙徳寺
横瀬八幡