2013年(平成25年)7月1日号

No.578

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山と私

(100) 国分 リン

― 雪の徳本峠と霞沢岳 ―  

 日本アルプスを世に紹介し、また、日本にスポーツとしての登山を教えたウオルター・ウエストン師が、徳本峠から眺める穂高連峰に驚嘆して「ワンダフル」と叫んだとか。

 そのウエストン師の功績をたたえて催されるウエストン祭は、北アルプスの山開きを兼ねて、毎年6月の第1日曜日に行われる。エーデルワイスクラブの故名誉会長坂倉登喜子さんは第2回から毎年参加され、最後に参加されたのは第60回、忘れられない思い出は坂倉さんが90歳の時に島々谷から徳本峠越えをされた時に、別グループで歩き、徳本峠小屋で坂倉さん差入れのビールで乾杯をしたこと。90歳のこの気力・体力に唯々尊敬するばかりでした。そんな徳本峠小屋が2010年に新館として再生オープンした。徳本峠小屋は大正12年(1923年)創設当時の建物の老朽部分を補強し、大正期からの変わらぬ姿を維持、保存の為に休憩等、資料館として改修したとホームページに載っていた。

 5月ゴールデンウイーク、恒例の雪の北アルプスを登りたいと思い、スポニチ登山学校講師の片平先生に相談したら、「徳本峠から霞沢岳を登りましょう。」

 今年の上高地は4月下旬に大雪が降り、4月27日の開山祭も広場で出来なかったそうで、バスから降りたら日陰には雪が残り、空気も冷えて寒かった。早朝新宿発のあずさだったので、13時30分に明神館から徳本峠小屋へ電話を入れて、いよいよ出発。明神分岐(1550m)から車が通れる林道へ、今までの喧騒は無く静かな歩きを40分過ぎると、雪道になり「アイゼンを付けましょう。」黒沢を渡ると夏道とは大違いで直登のような雪壁に見えた道が続く。明神岳を背に受けて、先生の踏み跡を一歩一歩登っていく。槍ヶ岳の登りを思い出した。あの時は8歩登っては息を整えたが、今回は大丈夫のようだし、半分の標高差と言い聞かせたら楽になった。上を見ると何か作業をしている人たちが見えた。あそこまで頑張れば、16時スコップで作られたトラバースに出て、歩きやすくなり40分で黄色のテントが3張りあり、17時徳本峠小屋到着。受付に行くと、テーブルとイスでの夕食が始まっていた。12年前の9月、エーデルワイスの仲間3人と徳本峠小屋へ2泊して霞沢岳を登った時に、もうここへは泊まりたくないと思った。今回は白木の匂いも残る2階の宿泊所に案内されたらとてもきれいだったし、トイレ棟も別棟で清潔だ。食事もおいしく、私は山小屋での食事が申し訳ないが残すことが多かった。でも完食できたのだ。食堂の周囲には大きな山写真が数枚と下記の額が皆を見下ろしていた。小屋の温かいもてなしと雰囲気も良く、その夜は良く休めた。


 翌日は晴れ、7時霞沢岳へ出発、10分ほどでベンチのある展望台へ着き、シラビソ・コメツガの樹林帯をジグザグに急登の踏み跡を辿る。途中凍り滑るところもあったが、周囲の景色の変化を巡りながら90分、やっと平地に着くとテントが2張り、人気は無く、雪のブロックが積まれた場所もあった。快適に歩く。そこから5分、雄大な山々の連なりが見える場所ジャンクションピーク2428mに到着。行く手を見ると一旦また下り、その先はK1までの雪の壁が見えた。それを見た時、秋に登った時の辛さを思い出し、雪道で歩きやすいとは思ったが、「先生、私はここを動かず居るし、霞沢岳を登ってきて下さい。ピストンで戻るのだし、天気も最高だし。」「いやそれは出来ない。帰るまで私の責任です。何かあったら困るので。」「すみません。登りたい気力がなくなったので、ここでゆっくり景色を眺めながら、昼食を取りたいです。」「無理をしないことが事故を防ぐ一番です。」気分も軽やかに温かいお茶とおにぎりを食べ雄大な眺めを満喫した。先を急がずのんびり、誰も居ないジャンクションピークからの山々は、最高だった。

 翌日も晴れ、徳本峠小屋の方々へお礼をして、穂高連峰の眺望へ別れを告げ、上高地へ下山開始。トラバースから明神岳を眺めながらの凄い坂をジグザグに降りる途中、アイゼン無しの2人連れを見た。滑りながら登るのを見たら「危ないから止めたほうがいいですよ。」でも声にならなかった。自己責任か。

 また明神に戻り、河童橋に鯉のぼりが揚り、子供の日の観光地の雑踏の中にあった。
これから先、何回山登りが出来るかと思う時に、「そうだこの霞沢岳のことを思い出そう。」