2013年(平成25年)6月20日号

No.577

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安全地帯(397)

相模 太郎


長井斎藤別当実盛

 平家の武将、斎藤別当実盛(さねもり)は越前(福井)出身ながら、武蔵国長井荘(現在の埼玉県大里郡妻沼町)の領主であった。源義朝(頼朝の父)に従い、保元・平治の乱を戦い、平治の乱で義朝滅亡後、平宗盛に仕え、長井荘の管理に当たった。源平合戦では、平氏側の坂東(ばんどう―東国)案内役として活躍し、坂東武者と言っていい人である。

 治承4年(1180)8月伊豆に配流されていた源頼朝挙兵、東国は源氏の手に落ちた。急遽、平清盛は孫の惟盛(これもり―23才舞を良くし実戦の経験なし)を大将軍に、7万騎をもって頼朝討伐に向かわせる。富士川西岸まで兵を進めた惟盛は坂東の武士たちの様子を案内役の実盛に聞く。平家物語は実盛のすさまじい話を記しているので現代語で要約する。

 「東国には私ぐらいの強弓を引くものは、いくらもいます。弓の強さは鎧(よろい)の2、3両重ねたのを射通します。一頭首でも率いるのは五百騎以下のことはなく、悪路でも落馬や馬を転倒させることはありません。」
「いくさは又、親もうたれよ、子もうたれよ、死ぬれば乗りこえ乗りこえ、たたかふ候(そうろう)」(原文)

 「西国では、親や子が討たれればお弔いをして悲しみ、忌(いみ)開けてから、開戦する。食糧が無くなると田植えをして秋の収穫を待ち、夏は暑い、冬は寒いといくさを休む。しかし、今、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の源氏が後方からも攻めて来る気配です。」と説明する。「平家の兵(つわもの)共これをきいて、みなふるいわななきあへり。」(原文)それに加え、迎え討つ頼朝軍、坂東の精強20万騎が手ぐすね引いて対峙する。平家の軍勢7万騎の内容がひどい。総大将惟盛は弱冠23才、舞いを舞わせれば天下一品だが、戦場に出たことはない。道中の国々の主を持たないあぶれ者の駆り武者たち、いくさのイの字も知らない烏合の衆である。果たしてゲリラ戦に悩まされやっと着いた富士川で陣を布いたが、10月20日、水鳥の音に驚き(一説には事前に説得され)潰走。京に逃げかえったのは数十騎であったといわれ、清盛は激昂する。

 話はかわり、真の坂東武者、実盛の最後について述べよう。源氏の内紛で義朝の長男義平が叔父義賢(よしかた)を武蔵大倉(埼玉県嵐山町)の館を襲撃し殺害した。しかし、その子義仲は運よく、平治の乱で義朝について敗れ長井に帰郷していた斎藤 実盛に助けられて、乳母の夫、木曽の豪族中原 兼遠のもとに庇護され成人した。頼朝挙兵を期に呼応して木曽で旗揚げ、五万余騎が京へ進撃する。迎え撃つ平家の大将は平 通盛(清盛のおい)、惟盛等、総勢十万余騎、その義仲討伐の平家軍のなかに73才になった斎藤 実盛も加わっていた。寿永2年(1183)4月17日であった。彼はさきの富士川の敗北には参戦はしなかったが、京への敗走にはいた。老いたりとはいえこの恥辱を晴らさんがため深く期することがあったのだ。平氏は倶梨伽羅(くりから)峠で大敗し、篠原(石川県加賀市篠原町)まで退き、一戦交えることとなり、実盛はここを死に場所と覚悟して一歩もひかず奮戦した。ついに、老齢の身、いくさに疲れ、義仲の武将手塚 光盛(諏訪の武士)と組んでついに討ちとられ、首を義仲が実見する。義仲は、錦を着て、斎藤 実盛のようだが、鬢(びん)や髭が黒いのはおかしい。実盛の顔見知り樋口 兼光に実見させたところ、はらはらと涙を流し、「ああ、無慚、実盛に間違いありません。いくさに向かい侮られぬよう鬢、髪を染めたのでしょう。」と、首を洗わせたら案の定、白くなり実盛に間違いなし。平家物語はいう「朽ちもせぬ、むなしき名のみとどめおきて、かばねは越路の末の塵となることこそ悲しけれ」。坂東武者の矜持(きょうじ)を胸に覚悟の死、敵味方に別れたが義仲には命の大恩人、丁重に葬ったのであった。

 後年、木曽 義仲をごひいきにして、大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)に墓まで義仲と一緒にした松尾芭蕉は「奥の細道」の道すがら、北陸路の篠原へ立ち寄り、実盛の最後まで平氏に忠節を尽くした「男の美学」に感あり、次の句を詠んでいる。
むざんやな かぶとの下の きりぎりす

 只今、絶好の新緑の真っ盛り、勇猛な武士たちが坂東の広野を疾駆したであろう往時を偲び、ぜひ各地の歴史散策をお勧めする。

(おことわり)本誌、「いこいの広場 平家物語を楽しむ会 神埼 邦子様」をさしおいて素人の私が知ったかぶりで引用、投稿して恐縮です。             

実盛塚(熊谷市妻沼町)
実盛館跡と言われる

平家越え(富士市新橋)
富士川合戦の碑

実盛塚(加賀市篠原町)
実盛討死の地



 (写真は、かつて筆者が実踏の際撮影したものです)