2013年(平成25年)6月1日号

No.575

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茶説

 映画「リンカーン」と憲法問題

   牧念人 悠々

 スティーブン・スピルバーク監督の映画「リンカーン」を見る(5月22日・府中)。映画「リンカーン」は憲法問題を扱っている。奴隷制の廃止を巡って南部と北部に別れて戦争を起こしお互いに血を流した。自由を求める民主主義の道のりは決して平坦のものではなかった。今、日本では憲法改正問題がかまびしいのに観客はまばらであった。

 アメリカの憲法修正第13条は奴隷制度禁止を定める。

「第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とする時を除く。 

第2節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する」(1865年1月31日下院で可決。上院では1864年4月可決)。

 この修正条項の成立過程を知るのは無駄ではあるまい。1865年1月、エイブラハム・リンカーン大統領は苦悩する。いまから148年も前である。すでに南北戦争は4年を迎える(戦争の勃発は1861年4月12日)。有名なゲティスバーク演説から2年たつ。提案する修正13条の可決の見通しがつかない。長引く戦争に与党共和党の中からも奴隷制度を認めて南北戦争をやめるべきだとの声が強くなってきたからだ。この議会工作がすごい。1864年の下院議員選挙で落選した議員の離職後の就職の世話までする。成立に必要な20票獲得の駆け引きは人間同士の戦いでもあった。良心の問題でもあった。日本では憲法改正を定める96条に反対する「96条の会」が発足するなど緊張感がない。憲法論議も論点がかみ合わってない。

 南北戦争4年間の戦争を通じて南部は85万以上、北部は200万前後を動員。奴隷は南部諸州に350万もいた。南北戦争最大の戦闘はゲティスバーグの戦いで、北軍が勝利した(1863年11月19日)。ここで戦没者を記念する墓地の開幕式が開かれた。リンカーンの弔辞は272語という簡単なものであった。「神の導きのもとにあるこの国に新しい自由をもたらし、人民の、人民による、人民のための政府がこの世から消え去らないように決意しましょう」と結ばれた。南北戦争の戦争目的を明確に示したものであった。南部のリー将軍がリッチモンドから西95マイルのアポマトックスで残兵をひきいてグラント将軍に降伏したのは1865年4月9日であった。両軍の死者は62万人に及んだ。下院で修正条項13条が可決してから2ヶ月9日後であった。その5日後リンカーンはフォード劇場で観劇中南部シンパの俳優ジョン・ウィルクス・ブースに狙撃された。暗殺されたリンカーンは「総べての人に悪意を抱かずすべての人に慈愛を持ち」と演説で強調していた。むしろその死は南部にとって痛手となった。生前、政治家はリンカーンを専制主義者と呼び、新聞は馬鹿者とののしった。4月16日復活祭の日ニューヨーク・へラルドは「北部と南部の反逆的な新聞の論説が、この非人道で悪辣な行動をもたらした」と記し、新聞の無責任を反省したという(デイビッド・ルー著「アメリカ自由と変革の軌跡」日本経済新聞刊)。今後日本の新聞が同じような過ちを犯さないという保証はどこにもない。

 己の信念を通すことで国が二分し、多くの犠牲者が出た場合、指導者がどのように対処したかを明確に描いた映画である。難局に直面した際リーダーは「未来を見据えた決断」が求められる。安倍晋三総理にその覚悟ありや、なしや。あえて問いたい。