年に2回、5月と11月に大連時代の中学校の会合を開く。いつもは10人以上が集まる。今年はわずか6名であった(5月26日・ホテル・ニューオータニ・イン東京)。卒業して70年、年齢は87歳を超えた。出席者が少なくなるのはやむをえまい。11月の会合が最後にしようということになった。この会合で「歩くこと」が何よりも大事であるいう結論になった。話を聞いていた私は出席者6人とも「前向きに生きる」ことを心がけていると思った。私たち大連2中の校風は「負けじい魂」であった。
帰宅して何気なくアルバムをめくっていたらぱらぱらと落ちてきたものがあった。見ると中学時代の友人勝田悦次君(兵庫県川西市)からの手紙であった。消印の日付は平成6年10月24日であった。勝田君は今年3月15日亡くなったばかりであった。クラス会の日に19年前の手紙が出てくるとは不思議である。手紙には「謹呈 過10月16日福岡・大連2中光丘会70周年大会又前夜の『となかい』(私たちの同窓会の名称)九州大会と久しぶりに昔の仲間と楽しい一刻を過ごすことが出来ましたことを感謝いたします。大会時の写真と嬉野温泉病院にて40年も療養中の湯下賢君(注・平成19年4月26日死去・海兵75期・東大哲学卒)を山本字次臣君とともに訪ねた折の写真を同封いたします。機会があれば在京の仲間にお披露ください。末筆ながら向寒の折からご自愛専一に祈りあげます」とあった。湯下君と一緒に写った写真が同封されていた。湯下君と彼が東大に在学中、偶然に東大構内で会い、雑談を交わしたことがあった。
大連2中の創立70周年大会は平成6年10月17日博多駅前のホテル「日航福岡」で開かれ、同窓生313名が参加した。大会に合わせて前夜の16日夜、私が呼び掛けてクラス会を開いた。出席者は20名近くいたと記憶する。福岡在住の辻武治君(平成16年9月23日死去)が万事面道をみてくれた。
勝田君は「カツタ自動車」を経営、手広く販路を広げ、タイの駐在員に大江勉君がなっていたこともある。昨今は体調を崩し、『となかい通信』(平成21年第6号)「近況報告」(平成24年5月)を見ても会合には欠席していた。昭和18年3月卒業した仲間227人。すでに死んだ者は124名である。亡くなった同級生のご冥福を心から祈る。
(柳 路夫)
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