安全地帯(395)
−相模 太郎−
鎌倉鶴岡八幡宮旧大鳥居
平成元年2月14日若宮大路遺跡発掘調査団から旧八幡宮「浜の大鳥居」(木製)の根元の遺跡が発掘されたことを発表された。八幡宮の鳥居は若宮大路の海側よりNTTの前が「一の鳥居」、警察署前の両側にユニークな狛犬の鎮座するのが「二の鳥居」、太鼓橋前が「三の鳥居」と称している。
その一の鳥居から八幡宮よりに約100m左、スーパー前の歩道を整備していたところ直径約1.6mの大きな木の柱の地中部分が出て来たのだ。中心・中周・外周材の三重構造でそれぞれが八角、十六角で組み合わせ約40pの釘とホゾで連結されていた。昔はあの近くまで海が迫り、頼朝以来のの都市計画で平清盛の安芸の宮島に負けず海に面したことも考えられたのではないか。そこから海まで200mはあるが、現在は海抜3.6m、当時はもっと海が近くだったはずだ。記録だけでも治承4年(1180)頼朝の建立より徳川将軍家綱の寛文6年(1666)(石造になる)まで建て替えが7回もある。推断によれば、出たのは寛文鳥居の前、木製の天文21年(1552)4月12日完成のものらしい。余談だがその鳥居は願主が他国の出家に頼んだところ費用を私用に使われ、その上自殺してしまったスキャンダルで12年も遅れた因縁の鳥居だそうだ。現在は石のマンホールで囲い説明も付いているのでご覧のほど。
話は変わり、大正12年9月1日11時58分、相模湾沖を震源とするマグニチュード8の大地震発生、相模湾に面した鎌倉はまともに受け壊滅した。勿論多くの神社仏閣も倒壊し、鳥居のような不安定な建造物は倒壊してしまった。しかし、廃材となった御影石の寛文年間に創建された鳥居は、現在円柱の碑として利用され、現在も残っているのを3か所ばかりご紹介する。
まず、第一に大船駅より江の島方面行きのバスが「鎌倉山」バス停のロータリーのところ。高さは約5m。大きな石の円柱で鎌倉山と雄渾(ゆうこん)な文字で彫られた碑が建っている。裏には「建国記念の日二月十一日」と菅原通濟揮毫で刻まれている。鎌倉山は昭和44年(1969)に開発分譲された一区画数百坪の高級分譲地のはしりで、エアコンなど無い時代だから避暑、避寒に最適で、多数の有名人が購入した。標高80~100mぐらいの緑の多い丘陵地帯で、特に春の桜並木は見事だ。石柱はその入口に立つ。ちなみに、現在、山中にある檑亭という料亭は、かつて開発に尽力した実業家菅原通濟の豪邸であった。
次は、鎌倉山でも余り知られていない、上記分譲地の東南端の狭い道路端の草むらを入った淋しいところにある石柱には正面に「爆弾三勇士奉勳碑」陸軍大臣荒木 貞夫大将の揮毫による。横に鳥居建立の年号「寛文八年戊申八月十五日再興 鶴岡八幡宮」と彫られている。これも鎌倉山メインの道路側にあったが、終戦で撤去を恐れた方が自邸に移築したのだそうだ。
軍国歌謡「廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣 我の友隊すでに攻む・・・・」と戦前派には懐かしい。上海事変で独立工兵第18大隊(久留米)の江下、北川、作江一等兵は昭和7年(1932)2月22日、敵陣地攻撃に鉄条網を破壊し突撃路をつくるため爆薬筒を抱え突入、三人とも爆死した肉弾特攻を行った勇士顕彰の碑だ。「忠魂清き香を伝え ながく天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士」
今、山影にひっそり建っていて、見るも哀れだ。
最後は御承知の鶴岡八幡宮境内、鎌倉国宝館入口右側に立つ。三代将軍源 実朝が「山は裂け 海はあせなん世なりとも 君にふたごころ 我れあらめやも」と天皇に忠誠を尽くす和歌が刻まれた高さは5mほどの石の円柱がある。悲惨にも実朝は雪の降る承久元年(1219)正月28日新年拝賀を終えたこの境内で兄頼家の子、八幡宮寺別当公暁に殺害され、三代で源氏将軍は絶えた。
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八幡宮二の鳥居(警察署前) |
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桜咲く鎌倉山ロータリーの碑 (右の石柱) |
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爆弾三勇士の碑(鎌倉山) |
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源実朝の歌の碑 |
(筆者 撮影)
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