2012年(平成24年)11月20日号

No.556

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追悼録(472)

下総皖一さんの特集『空の向こうに愛がある』

 

 毎日新聞の先輩・石綿清一さんから音楽家・音楽教育家・下総皖一を偲ぶ『空の向こうに愛がある』―25周年特集―を頂いた。下総さんと言えば童謡「たなばたさま」(作詞・権藤はなよ)「スキー」(小学校唱歌)がなつかしい。出身が埼玉県大利根町(現加須市)とは知らなかった。石綿さんは現役のころより毎日新聞を卒業後の方が文化・福祉方面でよい仕事をされておられる。

 下総さんは昭和37年7月8日64歳で亡くなっておられる。すでに今年で50年がたつ。偲ぶ会が発足したのが昭和62年7月であるので今年で25周年になる。石綿さんは刊行委員長として努力された様子がよくうかがえる。童謡「赤とんぼ」(作詞・山田耕作)の三木露風(作曲)が兵庫県竜野市では至る所に赤とんぼの標識や商品が目立つのに下総さんは最近になってやっと歌碑も建ち(平成10年作・少年像‣加須市立原道小学校。同年作・大利根町道の駅)、知られるようになった。作曲した校歌は埼玉県内の小学校、中学校、高等学校合計146校に及ぶ。全国で見てみると栃木県内88校、北海道21校、東北41校、関東43校、中部・関西・中国62校、四国13校、九州12校、その他20校となっている。

 下総さんは『海ゆかば』(昭和12年作)を作曲した信時潔を敬慕していた。栃木師範に在職のころ(昭和2年)国分寺の信時潔の元へ宇都宮から通い熱心に作曲の勉強に励んだという。『特集』のコラムにこんなエピソードが載っている。戦争中作られた『真珠湾攻撃』を作曲が「東京音楽学校」となっているのを戦後、占領軍が作曲者は誰かと追及した。当時の乗杉学長(嘉寿・1928年から1945年まで)は作曲者が下総であることを知っていながらあくまでも「作曲は東京音楽学校だ」と押し通した。このころ占領軍は戦争協力者を公職追放処分にした。乗杉学長のお陰で下総さんは公職追放処分を免れ戦後いち早く音楽活動が出来た。夫人伸子さんが作成した著作権登録控えを見ると、下総さんが作曲した軍歌は『第二次特別攻撃隊』(くろがね会選定)の一曲だけである。戦前、東京音楽学校作曲の軍歌は『大東亜戦争海軍の歌』(作詞・河西新太郎・朝日新聞選定)『皇軍の歌』(作詩・徳富猪一郎・佐々木信綱)『特別攻撃隊』(読売新聞選詞)等があるがそう多くはない。コラムの『真珠湾攻撃』は正しい歌名ではなく『第二次特別攻撃隊』であろうと推察する。

 また昭和19年音楽学校、美術学校が戦争に役に立たないと言って廃校になるところを下総さんらが「こんなに役に立つ」と言って存続させたことを作曲家の山崎八郎さんが書いている。私は毎日新聞に入社してまもなく先輩から「名文家になりたいと思ったら音楽会とか美術展へ行け」と教えられた。美しい音、美しい絵は人間の感性を磨くのに役立つ。平時であればなお音楽、美術の果たす役割は大であろう。このわずか68ページの冊子を丹念に読むと教えられるところが多い。


(柳 路夫)