2012年(平成24年)11月20日号

No.556

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安全地帯(376)

相模 太郎


武田信玄考


 当時武田信玄に凝り、甲州・武州・信州の故地を実地踏査したのを思い出す。あのころは、武田も頼朝と同じ清和源氏の名族、時代は違うが、源氏の故地の調査の関係で信玄関係を調べることになった。師としては、5年ほど前に亡くなった朝日カルチャーでお世話になった日本中世史の権威の先生で、中世史、主として吾妻鏡関連の指導を受け、それからずっと懇意にしていた。

 とにかく、65才定年後、家内もあきれる生来の凝り性のうえ、鎌倉在住の縁で、恥ずかしながら一人で中世鎌倉時代関連の京、鎌倉、関東一円は言うに及ばず、夢中で日本全国精力的にビジネスホテルに泊り、写真を撮りながら何日も車を駆ってまた、鉄道、航空機、船も利用し、調べたが、さすが、齢には勝てず、気力・体力・財力も無くなり、ある程度で終了、今は史書を見ながら、数千枚の写真の中より抽出し、懐旧している

 なお、現在映画上映中の「のぼうの城」、忍(おし)城の成田一族(先祖は頼朝の御家人)関連も実地調査したのが懐かしい。その成果の一端を紹介する。

「武田信玄ハイテクへの挑戦 」  

1.信玄の決意

信玄21歳、父信虎を今川家に追放し甲斐の太守となる。甲斐は山岳重畳、内陸的気候で冬は厳寒夏は猛暑の上、洪水や旱魃、冷害も多く厳しい条件が続く。土地がら温和な南の駿河今川、東の相模北条、関東管領扇谷上杉、山内上杉に到底太刀打ち出来るものではなかった。
先ず富国強兵を目途とし、治山治水・新田開発・山岳資源の発掘などあらゆる可能性を模索することを決意し、部将に調査・施策の研究を命じる。
 また、当時新知識とされている禅僧たちには領国経営、特に農政に対する意見や具体的な方法について意見を求める。なかには2回も遣明使になった博学の高僧もあり、信玄や家来たちに農政学のほか鉱山開発や築堤工学などの理論を学ばせている。

2.信玄堤の構築

甲府盆地の大半は釜無川・笛吹川などの常習的な氾濫により湿原の様相を呈していた。護岸工事や築堤工事を行ってもすぐ壊されてしまう。「治山・治水は天下の太平」、信玄自立の翌、天文11(1542)年御勅使川と釜無川との合流地点に耐久性のある強度な堤防を構築し、農業生産拡大のため下流を見事な穀倉地帯にするべく決心する。ときに信玄22歳。
最初は試行錯誤の連続であったが、次第に全国に募った土木技術者も増え、山本勘助らの築城学の応用からくる築堤術の効果が現れ始め、世にいう武田流築堤術を考案。15年にわたる難工事を完成させ、弘治3(1557) 年甲府盆地を見事な水田地帯によみがえさせたのである。工事は何度か失敗しても決して屈することなくその都度、原因究明を徹底的に行い、新しい理論や工法を合理的・総合的に工夫して再度挑戦を試み、その技術は近代治水土木事業の先駆として今に高く評価されている。
まさに強力な武田軍団を率い関東・中部地方を疾駆した信玄の合戦主導の方針と同じく面目躍如たるものがある。


3.甲州金の産出

山岳資源の開発として、甲州の山岳地帯の金を始めとする銀・銅を積極的に発掘する。中でも黒川金山の軍用金は甲州金あるいは武田金として信玄の強力な軍資金となった。宿老板垣信方が猿楽師の大久保長安を起用して一挙に黄金の産出量を飛躍的に増加したのである。長安は父とともに諸国遍歴中、長崎でポルトガル人から先端的な坑道掘削法を学び、これを黒川金山に活用したという。信玄の眼力・登用には敬服に値えする。現場の金山衆に血縁・地縁として中心になったのは於曽衆(塩山市)でそのほか地侍の名も見える。
信玄はこの甲州金を将兵の戦功賞賜、軍需物資の買いつけあるいは贈与、寄進などに用いた。即ち甲州金は信玄の軍用金であり、対外的な交換貨幣であった。
金山衆は信玄の攻城戦には度々本国より呼びよせ得意の坑道掘削に活躍した。難攻不落と言われた武蔵松山城・駿河深沢城・三河野田城などは坑道戦の典型として特に有名である。


4.商業振興

山岳国の特性を生かし、一般木材・うるし・紙・つむぎ・獣皮・薬などの生産を勧め、特に貴重で高価なうるしの生産は盛んであった。
信玄堤と並行して甲府盆地を取り巻く扇状地や台地に水路を開き、穀物を作らせ、道路や橋を整備して領民の定着を図る。
駒ケ岳や茅ケ岳の山麓、御坂峠下などに牧場を造り馬の飼育生産につとめる。甲斐の黒駒は有名。武田騎馬軍団の育成はこの殖産興業の賜物である。
甲斐を富ませるには人工集中、流通経済の増進にあるとし、甲府(古府中)の城下町の整備をする。三日・四日・七日・八日・十日市場等市場の発展や賑わいに商業の振興を図った。
紙すき・紺屋・鍛治・大工・塗師・畳屋・杣職等の職人を保護し、勤勉なものには課役を免除しこれを称えた。
農業経営に必要な鍬・鎌等の農具、衣類・塩等の生活必需品販売の商工業民には商売上の諸役の免許や自由通行権を与え、甲府には商人・職人町を設け百姓領民と商工業領民との相互利益を図る。後の織田信長の楽市・楽座はこれを参考にしたふしがある。


5.武田水軍の創設

織田信長が今川義元を桶狭間に敗り、東海地方は信長に浸食されることとなる。信玄は駿河進入を決定、信長の脅威を守らなければならなかった。そして、上洛には先ず水軍を創設し、駿河湾の制海権を手中に収め援軍の派遣、食料・の補給、他国との経済物資の流通を図るばかりでなく、今まで不可能に近かった鉄砲と火薬が手にいれようと考えた。また、そのほか今川氏直営の金山や豊富な海産物、肥沃な穀倉地帯までが転がり込んで来るのである。
信玄、永禄11(1568)年既に内通していた今川の重臣などにより、楽に駿河侵攻を成功させる。今川氏真擁護の小田原北条との抗争がしばらく続くが、常に甲斐軍攻勢にたち北条軍を圧倒、元亀2(1571) 年には駿豆地方を手中に収めた。
最初は今川水軍をそのまま武田水軍としたが、小規模のため伊勢海賊衆を募り小浜景隆とその被官向井正重(静岡清見寺に墓あり)父子を起用する。この武田水軍の創設に采配を振るったのはかつて今川水軍だった岡部忠兵衛 (後の土屋豊後守) であり武田海軍司令になる。
海賊衆には高禄の知行地を与え、海上通行税の徴収権や各種の特権を与えたので各地の海賊衆が集まって来た。
武田水軍の編成は二千石近く、天守台(司令塔)を持つ安宅船 (軍艦) を旗艦、正船と称する旗艦護衛および主力の戦闘艦は、50〜100 挺立て位の矢倉を設ける。また奇船と称し40〜50挺立ての船は敏捷に行動し敵に奇襲をかける巡洋艦。小早船あるいは斥候船と称するものは20挺立てで軽快なスピードで航行する駆逐艦である。都合52艘の軍船で当時最強とされた村上・毛利の水軍に匹敵する陣容である。
かくして、強力な武田水軍の創設により信玄積年の夢が実現し、武田水軍が駿河湾の制海権を得ることに成功した。
天正4(1586) 年遠州灘で徳川水軍との遭遇戦、同8(1590) 年陸地で武田勝頼の見守る中の伊豆重須沖での北条水軍との海戦、翌年の伊豆久龍津海戦の北条側三艘を撃沈等敗色漂う陸地での武田軍に対し唯一気を吐いたのである。


6.鉄砲入手

元亀2(1571) 年ごろ信玄、土屋豊後守に鉄砲・火薬の入手を命ず。時に織田信長は信玄の意図を察知して堺の交易商、会合衆を勢力下に入れ精巧なポルトガル銃や硝石の入手を不可能にさせいるため、武田水軍を使い堺の会合衆と密かに取引、また義弟本願寺光佐に働きかけ、雑賀・根来衆あたりの国産模造銃を入手する。
当時部将の家臣が携帯する武器は全部自弁であったが、信玄は鉄砲を入手したものに相当する金額を別途支給している。山本勘介・真田幸隆・高坂弾正らの腹心も二挺、三挺を求め東奔西走した記録が残る。
また、領内や占領地の鍛治師・鋳物師に鉄砲・弾薬の製造を命じている。



7.軍用道路の構築

今でも八ヶ岳山麓に残る『棒道』は、佐久侵攻にかける信玄の周到さを如実に示す。
さながら、好餌に向かう大蛇の如く上・中・下ノ道の三本の道を得意の騎馬軍団が疾駆し得るよう成るべく直線的に幅を広くとる典型的軍用道路として構築した。しかも沿道には狼煙台・関門・砦等を敷設し、各所に残る山麓の大湧水を兵・馬とも十分利用できるところを通る。
その通過する大門峠に立てば彼の偉大な侵攻作戦の一端が偲ばれ、付近の湖畔に『信玄御座岩』と称する大きな岩が残存する。この岩上で佐久を見下ろしながら続々登って来る諸将を集め胸のすくような作戦計画を練り、的確な指示を与えたことだろう。

        「惜しむべし英傑武田信玄」


 元亀4(1573) 年三方が原で徳川軍を撃破した武田軍の動きが鈍くなる。信玄病重し。ついに兵をまとめ、帰国の途次わが子勝頼を呼び「三年の間死を秘し、国内を固め、兵を養い、時期をみて再び上洛せばたとえ死すともそれに勝る喜びなし」との遺言を残し、 4月12日信濃駒場で53歳の波瀾の生涯を閉じた。

 ハイテク技術にかけて部下を縦横に駆使した飽くなき探究の挫折。惜しむべし、惜しむべし。努力家であり、統率の真髄を究めた信玄、あと10年の長生が、信長・家康を落とし、必ずや天下に君臨し、ひいては今日に至る日本歴史を塗り替え得たものを。
信玄、死の直前「明日、瀬田に旗を立てよ」と。薄れる意識の中、夢は未だ戦野を駆けめぐっていたのだろうか?