安全地帯(364)
−相模 太郎−
埋まっている軍事都市鎌倉
お盆のころになった。中世当時の鎌倉武士や町民の冥福をお祈りしながら古都鎌倉遺跡発掘関係の一端をお知らせしたいと思う。
源頼朝の開いた鎌倉幕府は約140年を経て北条高時の代に滅亡した。その間鎌倉は決して平和な都ではなかった。市中は、たび重なる天変地異、大火災なども多く、加えるに大きな内乱(和田の乱、三浦の乱等)や、新田義貞に攻撃を受けた北条氏滅亡もあり、戦乱ではその都度多大の犠牲者が出た。問題は、その死体の処理だ。三方が山、南は海で狭い鎌倉に墓地のスペースがそんなにあるものではない。ある程度の御家人は山の崖を削ってやぐらと称する洞穴へ安置、平地へ埋葬するのはよほど偉い人、ほかは、合葬が多いようだ。中には火葬をした骨もあったらしいが、とにかく大きい穴を掘って埋(い)けたのか。放り込んだのか。また庶民となると、差しさわりがあるので言わないが、淋しい谷に捨てる場所をきめ、風葬や鳥獣葬にしていたようだ。
何か所か発掘の説明会へも参加したが、もう年代もたち、あまり悲壮感とか、気味が悪いとかはないが、その量たるやすさまじい。メインの若宮大路の由比ヶ浜へ出る左手前の簡易裁判所の敷地では昭和28年の発掘で、刀傷のある戦闘の遺体や老若男女の遺体が千体余りも発掘され、近くでは昭和13年にも、かます6杯分の人骨が発掘されていた。また、反対側、由比ヶ浜海浜公園建設のときは建物跡のほか五千体ほどの遺骨が発掘(単体は約670体、集積埋葬40基ぐらいで大きいのには一基で500体ぐらい埋葬)され、刀傷や掻傷(そうしょう)と言って死後皮膚を剥いたような手を加えたものが多い。中には馬や犬もあった。
私も、六地蔵の近くのビル建築で基礎を掘っていたところで骨の30aぐらいの層を見たことがある。市の担当者もお線香をあげながらの作業だ。あのあたりは刑場跡だったそうである。とにかく、大げさにいえばどこを掘っても骨は出て来る可能性がある。つまり、骨の上に町がある
われわれ陸軍士官学校第59期生の聖地としている長野県佐久市(主幹 牧 念人氏の遙拝所の記事参照)の金台寺(こんだいじ)にはなまなましく描写した鎌倉滅亡時の状況を知らせる手紙の一部が、現存している。藤沢の時宗(じしゅう)大本山清浄光寺(別称、遊行寺…ゆぎょうじ)の従軍した僧が信濃、金台寺の僧へ送ったもので、私も拝見する機会があったので、それを口語約でご紹介する。(註…ただし、この文書は日付が無く別の戦乱との説もある。)
「鎌倉は大変なさわぎですが、道場(寺のこと)は殊更静かです。それは、今まで頻繁に来ていた武士たちが、みな合戦に向かってしまい、留守になったからで特別の念仏行事も行われません。いくさの最中、攻める方も守る方もみな念仏を唱えていました。同志討ちして後日首を斬られる武士たちに対し、道場の僧たちが由比ヶ浜へ向かい、念仏信者に、みな念仏を勧めて往生(おうじょう)させました。いくさが済んでからは修羅場を見、知ったせいか、人々の念仏への信仰心がいよいよ高まり、かたじけなく思っております。もし、命があればまたお知らせします。」(註…時宗の僧侶は従軍僧として死体の処理などの戦場整理、死に対し引導を渡したり、死者の供養をした。いまでも戦場へ行く外国の軍隊には従軍僧がついているところが多い)(註…清浄光寺は踊り念仏と、朝鮮風の冠をつけた国宝の後醍醐天皇肖像の所蔵で有名)
今、小町通りのにぎわいは、休日ともなれば大変なものだ。何も知らぬ(?)観光客はその下に鎌倉武士や町民の遺跡が、遺骨が眠っているのもつゆ知らずソフトクリームをなめ、せんべいやクレープを食べながら嬉々として歩いていらっしゃる。平和、平和でノーテンキ。ときには戦乱に明け暮れた古都を偲んで見てはいかがでしょうか?
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