2012年(平成24年)7月20日号

No.545

銀座一丁目新聞

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山と私

(87) 国分 リン

― 積雪期に登れた、貴重な体験をした「北穂高岳」 ―  

 「今年は北穂を登りますか。」「私登れますか。」「お天気次第ですが。」「それでは積雪期の北穂高登りたいので、よろしくお願いします。」スポニチ登山学校の縁で片平先生に個人ガイドをお願いし、今年の5月連休の予定が決まった。昨年、同時期の「槍ヶ岳」は素晴らしかった。

 この時期、里は春でもアルプスの稜線は冬の顔になり、北アルプス・白馬岳で遭難死した6人も「低体温症の恐怖」は知っていたに違いない。一般的に人は体温35度で震えが大きくなり、歩行困難になる。32度で意識障害、30度で不整脈が出て、26度以下で意識がなくなるという。「天候が絶悪なら3時間で死亡も」「すばやく退却するかビバークせよ」「風による体温喪失はツェルト(簡易テント)である程度防げる」。6人は軽装で見つかったが、リュックの中にはダウンジャケットなどの防寒衣が入っていた。手袋も、強風で飛ばされたツェルトも見つかった。山のベテランたちの判断力と体力を、低体温症が急速に奪い取っていったのか。 読売「編集手帳」より

 5月2日(水) さわやか信州号「上高地行」23時発のバスは3台も予約され、運転手は2名乗務に安心したが、雨が降る中の出発であった。
「上高地でもひどい雨でしたら予備日があるので考えます。」片平先生が雨を心配して注意をされた。

 5月3日(木) 5時20分に上高地バスターミナル到着。「雨は」「小降りです。雨具をつけ徳澤までとりあえず行きましょう。今日は涸沢までなので余裕があります。のんびり歩きましょう。」登山届を片平先生が提出し、朝食を済ませ6時30分出発。河童橋では穂高は雲に隠れ、人もまばらで静かだった。明神も雨、まだやっと雪が融けたばかりで春先の様子。8時20分徳澤到着、テントは雨降りのせいか少なかった。5日の予約をしていたので、着替え等を預け身軽に横尾へ、梓川沿い道を歩く頃、嬉しいことに太陽と青空が見え、晴れてきた。9時30分横尾到着。天気予報が悪いせいか、昨年と比べ人が少ないなと感じた。のんびりお茶タイムをし、10時横尾大橋を渡りいよいよ涸沢小屋を目指し、出発。横尾岩小屋を過ぎた頃から登山道に雪があり、ステップを切りながら歩いた。左手に屏風岩が出てきた。「ここはロッククライミングで何度も登りましたよ。」「うぁー凄いですね。」「ここはクライミングのメッカですよ。」私には考えも及ばない場所であった。登りがきつくなり、ゆっくり滑らないように一歩一歩登り、とうとう本谷川渡礁点に出た。橋は雪に埋まり、夏ここでゆっくり休憩した面影は全然無く、四方八方から雪崩れたデプリの跡があり、この雪の上で休憩をしている人に混じり昼食。ザックに鯉のぼりを付け登っている人を見て思わずパチリ。そう「子供の日」が近い。前を見ると大勢登山客がいた。
 涸沢ヒュッテの屋根が見え、「もう直ぐね。」でもそこからの登り道は長く、ヒュッテと小屋の分岐へ出て、そこからの登りが一番つらかった。14時30分涸沢小屋(2350m)へ到着。涸沢小屋のテラスは絶好の見晴らし台、しかし雪原から吹く風は冷たかった。
涸沢小屋の掲示板に4日の予報が出ていた。「雪から曇り」夕焼けもなく、夜半凄い雨の音に目覚めた。

 5月4日(金) 小屋の窓から青空と周囲の山が見え、5時頃から続々奥穂を目指す人や、北穂へ登る人の行列が見えた。「今日登ります。ハーネスを着け、ピッケル・アイゼン・雪山装備を完全に。7時に出発です。」心臓が高鳴ったが、「よし、抜かりなく完全に。」アイゼンを付け、ストレッチをし、出発。
小屋脇の急坂をいきなり登りだす。片平先生のトレースを一歩ずつ登る。ピッケルを刺し、アイゼンでしっかり足を固定し進む。昨年の槍の時と違い調子が良い。早い登りの人に道を譲りながら、片平先生のペースは私の調子が分かっているようにぴったりだ。50分毎に「先生1本お願いします。」足場を確保し、水分補給をした。35度の急坂に差し掛かり、まるで壁のようだ。「とにかく慎重に登ろう。」
「苦しい。先生ここでまた少し休憩を。」「いいですよ。はい、これで元気を。」先生のザックから大福餅を貰い、食べたら自然と涙が出て、不思議に力がわいた。年配女性が一人で登ってきた。「苦しいですね。」「皆同じく苦しいのよ。」「そう、皆同じですか。」そこから松浪のコルまでは不思議なくらいに頑張れた。北穂南峰を目指す人たちもいた。「ここからはもう一頑張りですよ。」もうこの頃からは、周囲の景色はガスの中で何も見えない。片平先生が「北穂頂上へ着きましたよ。」「信じられない。登れた。」
10時北穂高岳(3106m)到着。「写真撮りましょうか。」大きなザックを各々背負った父親と息子が声をかけてきた。お互いの記念写真を撮った。「その荷物の大きさは。」「カメラを何台も持ってきたのです。」「残念ね。」「北穂の小屋へ泊り、明朝を期待します。」雪に埋まった北穂の小屋へ降りて休憩をした。大勢の登山客が休んでいた。親子のカレーの食べる様を見て、その食欲と体力は比例すると思った。「良い写真が撮れますように。」と別れを言い、30分の休憩を終え、いよいよ下山開始。
「いいですか。ハーネスにザイルを結んであるので、安心して降りてください。滑っても私が止めますから。」片平先生の声を聞く。上から下を覗いたら足がすくむような急坂、でも1歩踏み出し、やっとリズムに乗り急坂を降りたとき、遠くに滑落した人を2,3人見たが、命に別条なしで、安心した。その時、私たちの横をドーツと音がして凄いスピードで落ちていく人を見た。「キャー。滑落。」「大丈夫かな。」滑っていった下を見たら人が立った。良かった無事のようだ。どんどん降りていくと「足が深みにはまって動けない。」と男性が騒いでいた。片平先生がピッケルで足の周りの雪を掘りだし、無事に足が動き良かった。またトレースを辿り降りていくと、表層雪崩が起き、振り返ると私たちの方向へきた。なんと私の右足が雪に埋まり動かない。雪崩が続いて音もなく2,3回来た。小さかった。やっと落ち着いた。「先生、足が動かない。」上を見ながらピッケルで雪を掘ってくれて、足が動いたときは安心した。急いでデブリの跡を横切り右方向へ行き、夢中で降りた。涸沢小屋の後ろの岩を見たときは本当に安心した。涸沢小屋へ14時到着。「小さい雪崩でよかったですね。」下山中に見ていた人たちが話しかけた。「きっと上で雪崩れる原因を作った人がいたのでしょう。」この時間帯から雨が降り出した。
こんなアクシデントの中でも「積雪期の北穂高岳」を登れた喜びは片平先生に感謝したい。でも今考えても大きな雪崩でなくて本当に良かったし、滑落された方も岩などにぶつからず、本当に運がよく良かったと思う。  4日の午後からは、自然の猛威が襲い、天候は回復しなかった。

 5月5日(土)夜半に降雪があり、涸沢小屋のテラスに5p積もり朝日はなかった。視界良好でいよいよ下山開始。色とりどりのテン場の中を通り、雪に埋まった涸沢ヒュッテを回り、涸沢の景色に別れを告げ、登ってくる人に道を譲り、挨拶しながら歩く。何組かの子供連れのファミリー登山客がいた。「どうか楽しい思い出が残りますように。」13時徳澤に着き、積雪期の山は終わった。その後から雷と雨になり、親子が思い出され心配した。

 銀座一丁目新聞5月20日茶説「登山の凍死は恥ずかしい」山のベテランでも遭難する。常に細心の注意を必要とする。油断をすると山の自然はその人に容赦なく猛威を振るう。自然の前に人間は無力である。山には常に感謝してその御機嫌のの良い時に登らしていただくという謙虚さがいる。と牧念人 悠々氏が警鐘を鳴らしている。
 その通り、中高年の体力の衰えが焦りを生み、どうしても登りたい思いが強くて、遭難につながる心理状態を作るのだろうか。