2012年(平成24年)5月20日号

No.539

銀座一丁目新聞

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安全地帯(358)

市ヶ谷 一郎


思い出の皆生温泉「東光園」


 銀座一丁目新聞のネタにしようとして書棚にしまって忘れていた24.1.1付産経新聞を見つけ、それにより筆者の昭和45年ごろ(45才前後)の思い出をうろ覚えであるが、後にも先にもない貴重な体験として書くこととする。

 某月某日のこと、ハッサン、クマサンの落語ではないが、近所の若い連中が4、5人集まって山陰旅行の計画が始まった。そんな話はすぐまとまる。先達は相変わらず旅行好きの私である。早速、交通公社(今のJTB)へ旅館の予約に行き、山陰一の鳥取、皆生(かいけ)温泉で有名な「東光園」を勧められ、前払いで予約した。 「東光園」は当時皆生温泉では老舗で大きい旅館だった。この産経新聞によれば、有名な建築家の故菊竹 清訓(きよのり)氏が、平 清盛建立(こんりゅう)厳島神社の大鳥居をモチーフに取り入れた昭和39年、戦後のモダニズム全盛期の作品なのだそうである。浅学非才の小生はもとより学術的価値など存じ上げず、記事を見てかつての貴重な経験を思い出した。

 一行は、海上を滑空して着陸した米子空港より、タクシーで意気揚々、皆生温泉へ繰り込んだ。目指す東光園は温泉の中心にあった。3,000坪日本庭園を配した堂々の鉄筋コンクリ−ト建の立派な旅館であった。フロントで公社に前払いしていた旅館予約券を提出したところ、なにか様子がおかしい。「少々お待ちを」と20分ほど待たされ、支配人らしい人が出て来て恐る恐る「誠に申し訳ありませんが、連絡の手違いで空室が無く、相部屋でよければお部屋をご用意できますが。」と言われた。あの当時の交通公社の威光もあったのだろう。旅館の気持ちを察し不承不承に応じた。早速、美人で年配のおかみのような仲居さんに案内され、最上階の風光明媚な部屋へ案内された。もう40年も前のこと、3部屋か4部屋あるとにかく広いのを覚えている。立派な仲居さんより決まった挨拶のあと、実はこのお部屋は以前お泊りになった方は、天皇・皇后両陛下、常陸宮ご夫妻、佐籐総理大臣夫妻で、他の方の予約はしていないことを告げられた。さあ、これにはビックリ、仲居さんも立派だし、どうも着るものも違うようで浴衣ではない。帯も絞り。すわり机はわれわれの使っているリンゴ箱に毛のはえたようなものではない立派なもの、蒔絵の硯箱、お茶の道具、電気スタンド、大型テレビ等すべて調度品はわれわれ下々(しもじも)の家とは違うシンプルであるが豪華な物である。広い浴室の木桶を見てまたビックリ。板の薄さはまさに芸術品。さすがのわんぱく坊主も広い部屋の片隅で堅くなっているので、仲居さんにごゆっくりしてくださいと言われる始末である。ツインベットの部屋では天皇陛下はこちらでと説明があった。おまけに食事も特別らしい。特に4階の吹き抜けのところで干した小鯛の干物の焼き物は絶品でいまだに覚えている。夜は私が先達の特権で恐れ多くも天皇陛下のベットへ休むこととした。わが人生の歴史に残る思い出を胸に、眠りについた。ふと、あの立派な仲居さんがしばしば、お茶をさしにあらわれたのは、いたずらされぬよう監視されたのではないかと思う。

 翌朝チェックアウトして呼んだハイヤーへ乗り込もうとすると運転手がいない。よく見るとドアーのかげで最敬礼をしていた。行く先を告げ馬鹿丁寧な運転手が「昨夜最上階へお泊りになったそうですが」といわれ馬鹿正直に昨日からのいきさつを話したところ、態度一変大笑い、実は東光園最上階の展望のよい例の部屋に電気が灯くときは偉い人がいらっしゃったしるしで、ハイヤーの運転手のなかで話題になるのだそうであり、お迎えも失礼のないよう、慎重にするのだそうである。

 とにかく、一生に一度の珍しい旅のだいご味を味わったのであった。あれから、40年、老舗旅館も代替わりしたとか、悪童どもも黄泉(よみ)の国への旅へ、私ひとりが旅へ行かずに生き残り、馬齢を加えている。同輩の冥福を祈る。