花ある風景(455)
市ヶ谷 一郎
幻の大寺院 永福寺
鎌倉市役所文化財課がおこなった永福寺(ようふくじ)発掘の説明会に行って来た(3月28日)。後醍醐天皇第一皇子尊良(もりなが又はもりよし)親王を祀り、奥に土牢のある鎌倉宮裏手の山の東側で二階堂というところ、鎌倉の谷戸(やと・・谷)としては比較的広く平たんな場所にある。
源 頼朝の建立した寺院は三つある。ひとつは有名な鶴岡八幡宮寺(昔は神仏混淆)。あとの二つは現在存在していない。特にそのひとつ、勝長寺院(父義朝の菩提を弔うため建立)は伝承だけで発掘してもなにも出てこないが、もうひとつの大寺院永福寺は近年の発掘により全容が判って来た。
頼朝は文治5(1189)年7月、藤原 泰衡討伐のための奥州征伐で死んだ義経や藤原 泰衡をはじめ戦死した敵味方将兵の鎮魂のため、建久3(1192)年に永福寺を建立した。東西約100b、南北200bの平場に、前に池を配し、中心に東向きに(拝む人は西向き、つまり西方浄土を向く)二階堂(いまも地名で残る)、北に薬師堂、南に阿弥陀堂、釣殿、多宝塔、鐘楼、惣門、僧坊、別当坊などを配す大伽藍である。現在数々の瓦や金銅製の金具、陶磁器、木・漆・石製品などの遺物が何回かの発掘で多量に出土している。
造営に頼朝は極めて熱心で、死者の怨霊を鎮めようと真剣だったらしい。むかしの武将は敵の将兵を徹底的にやっつけて、あとでその怨霊に取り付かれないよう、また味方の戦死者を弔うため、戦後、敵味方供養に寺院や石塔を建てた。代表的なのが、鎌倉円覚寺の北条 時宗(元寇の役)、京都嵐山の天竜寺の足利 尊氏(南北朝の争乱)はそうして建てたお寺である。それはともかく、頼朝は、文治5(1189)8月奥州藤原氏を滅ぼしたのち、大伽藍建立を企て、奥州平泉で見聞した藤原氏の中尊寺や毛越寺(もうつうじ)をまねて、同じような建築にしたことが史書吾妻鏡に詳しく出ている。即ちそれは奥州平泉に藤原 秀衡が、京都の宇治平等院鳳凰堂と同じような建築の無量光院という寺院を、産出する黄金にまかせ、理想郷を夢見て建てたのである。ご参考に十円銅貨の図案は宇治平等院鳳凰堂である。
今回の発掘の公表で礎石が相当出て建物の全容がはっきりしてきた。また、お堂前の大庭苑池の南側に東日本最大級といわれる見事な石組も発掘され、また、宗教行事に使ったと思われる組み立て橋の遺構も出ている。展示の石はほとんど伊豆石であった。偶然にも、本年4月1日に友人と伊東市宇佐美で江戸城構築の大名の刻印の有る巨石の展示を見て、永福寺の石と符合し、合点した。おそらく鎌倉時代とはいえ、黒潮に乗って船で鎌倉の和歌江島の埠頭か、滑川をのぼり寺の近くまで行っておろし、運んだのだろう。鎌倉石と言われるのは粘土質の砂岩で耐久性がない。残っている古い石はほとんど伊豆石か、真鶴の根府川石である。
あの壮大な理想郷寺院永福寺は建久3(1192)年11月20日ごろ落慶した。しかし、その後数回の火災にもあい遂に応永12(1405)年12月17日火災で焼け落ちてから再建の記録はない。廃寺となったと思われる。鎌倉市もできれば復元したいとは思っているらしいが、いまは「つわものどもの夢の跡」、貴重な遺構としての国史跡で、まだ数々の埋蔵文化財を抱いて二階堂の谷戸の奥に眠っている。梅・水仙・夢想国師の庭で有名な瑞泉寺への入り口にあるのでぜひご一見ください。
(附)
@数年前、永福寺のま東、よく見渡せる小丘の調査で経塚が発見された。発掘された一抱えもある大きなかめの経筒には、腰刀・扇・数珠・櫛(くし)・白磁壺などが収められ女性が関係か、これは頼朝の妻、尼将軍政子のものではないか、早くして非業の死をとげた娘大姫のものとか800年前を類推し、ロマンがある。
A以前、永福寺と名が入っている発掘した軒平瓦に児玉水殿瓦とある鎌倉文化財課の展示を見て、発掘以前、若いころ、史跡調査で埼玉県美里町の鎌倉時代の文様のある宇(のき)瓦が出土する国史跡、水殿瓦窯跡を訪ねたことがあり、永福寺発掘でわかった瓦との因縁の深さを痛感した。
B吾妻鏡によれば、建久3(1192)年1月21日頼朝が永福寺建設現場視察のおり、左目の悪い(不具のものは不浄とした)人夫を怪しみ捕らえた。調べたところ上総五郎兵衛平 忠光という平家の残党で片目に魚のうろこを入れていて、一尺ばかりの短刀を隠し持って頼朝の暗殺を企てていたのがわかった。
三浦の和田 義盛に預け処刑した。太平になったとはいえ、ときどき頼朝は平家の残党に命を狙われていたのである。
C吾妻鏡建久3年9月11日京都より招いた僧静玄が池に置き石を指図していたところ、有名な武蔵の武将畠山 重忠が大きな岩石(一丈つまり約3bというが誇張だろう)を一人で持ち上げ池の中心へ据えたという怪力を見せて皆を驚かせたという。
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